*二人*

ゆっくり自分と他人に折り合いをつけているのか、記憶と感情の全てを凍結させ今をやり過ごそうとしているのか、猊下は口を噤んだままそこにただ存在していた。
本をお渡ししてもお菓子を差し上げても緩慢な動きで受け取ったあとは
ソファーに寝かせてしまい、それらが猊下をお慰めすることは出来ない。
もう何かに怯えている風には見えないが不安定なままなのは確かだ。
親分のところに行きましょうか、とお誘いしてもふるふると首を振って
頂いたあみぐるみの耳をお膝の上で弄ぶだけである。

「ケンーご飯だぞー。」

ご飯の呼び声にとろとろと首を動かして何度か瞬きをしてから
猊下はソファーを降りた。
分からない。今の猊下がどういう状態なのか全く読めない。
いつもなら部屋に居る全員が廊下に出るまで待って下さるのだが
今日の猊下はそのまま廊下の先へと一人で進んでしまわれた。
「ヨザック、何をしているんだ。」
「はい…あーんケン待ってぇん。」
声をかけても右から左へ抜けているのか立ち止まっては下さらなかった。
折角打ち解けたのに今度は意識されなくなってしまって、哀しみもひとしおだ。

「おー、来たか。」
さりげなく、ではなくわざらしく猊下の好きなものばかりが並んだ夕餉。
しかし猊下は陛下の言葉にコクリと頷いただけだった。
プー閣下がやきもきしながら猊下の様子を覗っている。
陛下はどちらかと言うと冷静で他愛のない話を猊下に振っていつも通りを通していた。
ちなみにしかめっ面の親分の心中は今すぐにでも膝に乗せて猊下を撫でたい、というところだろう。
躾のなっている猊下は本当に食べきれないとき以外はご飯を残さないのだが
今夜は少しだけ口をつけたところで先割れスプーンを置いてしまった。
「もういいのか？まだかなり残ってるじゃないか。」
「…お腹いっぱいになった。」
くてんと力の抜けた猊下はそのまま物言わぬ人形にでもなってしまいそうな雰囲気だ。
「疲れているのでしょう。今日は早くお休みになった方がいい。」
「そのようだな。」
しかし一人で大丈夫なのか？
と親分の目が隊長に尋ねている。俺に聞かれても、という無情な隊長の目に
眉間の皺が増えたが、それも仕方のないことだ。
「ケン、今日は俺と一緒に寝ない？」
心此処に在らずのまま椅子を降りた猊下に陛下が何の重みもなく問う。
気遣われると遠慮する猊下を思ってのことだろう。
僕も居るぞ、と横から力強い閣下のお言葉。
猊下は言葉もなく考えてから首を横に振った。
閣下は少し落胆したようだが、陛下はさして気にする様子もなく言葉を重ねた。
「そっか。まぁ来たくなったら来いよ。遅くても俺達が寝ててもいいから。」
「うん。」
「おやすみケン。」
「おやすみなさい。」
ペコリと皆に挨拶をして去る猊下を隊長に任せて俺は陛下に申し出た。
「今夜は猊下の部屋の前に居てもいいっすか？」
「うん、よろしく。俺も部屋の前の人に言っておくからさ。」
「最初から僕達と寝かせればいいじゃないか。兄上だってケンの為なら…。」
閣下はあまりにあっさりとした陛下の対応が腑に落ちずに唇を尖らせた。
魔族本当は似ている三兄弟の新たな発見だ。小さい子供が好き。
陛下はうーんと苦笑いしながら手を伸ばし、猊下の皿を引き寄せる。
陛下には陛下の考えがおありのようだ。
まぁ陛下なら悪いようにはならないだろう。

猊下のお部屋に向かうと既に風呂の準備が始まっていた。
俺が落ち込んでいたら風呂なんか入らずにすぐ不貞寝するところだ。
この辺りのマイペースさが猊下らしいと言えば猊下らしい。
エンギワル鳥の行水ですか？という短さではあったがしっかりお風呂に入った猊下は
飾ってあった親分のあみぐるみをベットに持ち込んだ。
「消しますよー。」
「おやすみなさい。」
「はい、おやすみなさい。」
お部屋の前に居ます、とは言わずに灯りを吹き消し扉を閉ざす。
門番に俺一人で、と告げ下がらせ部屋の前に胡坐をかいた。
何もなければそれでいい。ただ眠るだけなのに何かあるのか、と聞かれると
分からないと答えるが職業柄、勘はいい方だと思う。
本当は閣下が言うように陛下のお部屋でお休みになって頂きたかった。
口数が減り、自分の内側に閉じこもってしまったようにも見える。
しかしどこかで、手を伸ばしている気がするのだ。
まだ早い時間なせいか耳を澄ますと別の部屋の音も聞こえてくる。
目を閉じ意識的にそれらを排除して猊下の部屋にだけ神経を集中させて待った。

どれぐらいそうしていたのだろう。
猊下の声がして俺は目を開けた。
自分にかけてあった毛布を手に猊下の部屋に失礼する。
魘されている猊下は寝台の上で夢から逃れようと苦しそうにもがいていた。
「ケン、ケン。」
「…っ！！」
肩を揺すり、現実に引き戻すと猊下はふにゃりと顔を歪めた。
努めて優しく髪を撫ぜ、頬を摩る。
「怖い夢を見たんですか？」
小さく頷く猊下まで月明りが届いていない。
トクトクと早鐘を打つ身体を抱き上げ、ゆっくりとした調子で背を叩きながら
窓の方へ移動する。
小さな弱い背を照らす月を見上げ、ぽつぽつと灯りの残る城を見下ろす。
夢に怯えながら育った彼が護った平和だ。
この夜がもう二度と来なければいいと今のケンは思っているだろう。
だが全ては、怖いばかりではなかったのだと知る事になる。
大丈夫だ、村田健はここで折れたりはしない。

「今は怖くても、ケンは強くなれますよ。」

目を反らせないほどの輝きと付け入る隙のない闇を兼ね備えて
貴方は王の隣に君臨するのだ。
屈託ない笑みで荒んだ獣の俺を屈服させたのは貴方だ。
小さな貴方の成長振りを思うと胸が震えた。
双黒の大賢者に仕える誇りで俺はもう一度月を見上げて断言する。

「強くて優しくてカッコイイ人になるんです。だから大丈夫。今は怖いままでもいいんです。」
「いつ強くなれるの？」
「今でも強くて優しいですよ。でも…そうですね１６歳になったらそりゃもう女の子達が皆ケンのお嫁さんになりたいって思うぐらいカッコよくなれますよ。」
俺の妙に自信満々な口調を不思議に思ったのか猊下が俺を見つめた。
ニコ、と微笑んでイタズラに額を寄せるとむずがるようにそれを避けて猊下が望みを口にする。
「お兄ちゃんとこ…行く…。」
「ユーリ陛下のところですか？」
「うん。」
「了解しやした。」
猊下を腕に抱いたまま毛布を引っ掴んで被せる。
俺の脈の音が安心するのか、首に顔を寄せ彼は息を潜めた。
陛下の部屋の前の兵士は俺と猊下の姿を確認すると中を覗いながら
音を立てないように慎重に扉を開き促してくれた。
来てもいいと言っていたのだから二人して一糸纏わぬお姿ではないはずだ。
そんなことになっていたらケンの目を覆って親分の部屋にお邪魔しよう。
大きな寝台の側でケンを下ろすと彼は天蓋を捲って遠慮ナシに乗り上げ
寝ている陛下の首に上から覆いかぶさるように巻きついた。
俺も失礼しまーすと寝台の上を四つん這いで後を追う。
よかった、服は着ている。
「んぁ？…ケン…来たのか…。」
「すみません坊ちゃん、寝所にお邪魔させて頂きました。」
「うお、ヨザックまで。あー…どした、変な夢見たか？」
寝惚けた声で聞かれて猊下はコクと首を縦に振る。
納得してその背を撫ぜ、かけ布団を捲る陛下にあとはお任せしようと
再度非礼を詫びて部屋をあとにしようとすると陛下に巻きついていた猊下が
身を起こし俺の服を引っ掴んだ。
「あれ？」
「…。」
「なんかヨザックも一緒がいいみたいだな。」
ふあ、と大あくびをしながらも身体を起こした坊ちゃんの言葉に目を見張る。
「えーと。」
「…。」
「いいんじゃねーの？ヴォルフはケンより起きんの遅いから。」
「ぇえ？俺にここで寝ろっつーんですか？ご冗談を。陛下と寝台を共になんて。」
「だってケンが放しそうにないし。」
この魔王陛下は本当にとんでもないことを言う方だ。
一兵卒の俺に陛下と同じ寝台で寝ろと？
「んだよーこんだけ広けりゃ雑魚寝と大差ないだろ。あ、靴だけは脱いでくれよな。」
肩が冷える、と猊下に布団をかけて横たわらせた陛下の中で俺はもう一緒に寝ることが決まったらしい。
どうやら猊下の中でも決まっているらしく真ん丸な瞳が動き出さない俺に「まだ？」と催促している。
「俺の地位の安全を誓って下さいよー陛下。」
「誓う誓う。さーケン、俺が夢の中までついてくからなー。」
「う？」
「俺とお前だとミラクルオッパッピーなことが出来るんだよ。」
どういう意味だろう？と思いながら靴を脱いで腕を伸ばす。
ケンに手が届いて陛下と閣下から限界まで離れられる距離だ。
その距離でも、手を握られていることで満足したのか猊下は寝る呼吸に切り替える。
閣下を自分に引き寄せ直し、猊下を後ろから抱き込んだ陛下もうとうとと夢へ旅立っている。

こんな所で寝れるものか、と肝が冷えたが
ケンの手の温もりは思いの外、俺を安心させた。

→７

二人　Ⅵ

2007.11.01

二人 Ⅵ

2007.11.01

二人　Ⅵ