渋谷は眞魔国の太陽だ。
濡れた黒髪に光が当たって、彼の周りは煌いている。
彼を慕う人間が代わる代わる言葉をかけては胸の中を暖かくしていた。
僕はそれに目を細めて、水の中で覚悟を決めた。
足の先から身体が冷たくなっていくのは水に濡れたせいではなく
自分のこれからが冷たいところにあるからだ。
自分が口にしなければ、誰も口に出さないだろう。
だがそれでは自分の気も、“誰か”の気も治まらないのだ。
「渋谷。」
ゆっくりと立ち上がって手を差し出す。
僕がただ自分を立ち上がらせる為にそうしたのだと思った彼は
いつものように軽く礼を言って手を取った。
温かい手を掴んで立たせたあと、僕は膝をつく。
「陛下、私を捕らえて法の裁きを。」
僕
は
過
ちを
越
えていく
−帰還
そのときの渋谷の表情を見なくてよかったと思う。
頭を垂れていた僕には渋谷が身体を強張らせたときの水の波紋しか見えなかった。
哀しそうな顔をされたら決心が鈍るかもしれない。
そんなに安い物ではないけれど、僕にとって渋谷は絶対の存在だ。
だからこそ間違わせてはいけない。
水を打ったように静まり返った場を打ち崩したのは渋谷の掠れた声だった。
「な…なに言ってんだよ村田。お前を捕まえる理由なんてどこにも…。」
「いくら創主を倒す為とは言え、僕は魔王と民を欺いた。創主となった眞王が暴走している間に、何人の民が傷付いたか分からない。いくつの村や町が被害にあったかも…。」
渋谷の言葉を遮って罪を紡ぐと、彼は動揺して僕に手を伸ばしたように思う。
ただその気配は途中で誰かに遮られた。
「…コンラッド…?」
「…。」
ウェラー卿が渋谷の腕を掴んだらしい。
緊迫した場面だっていうのに、僕はなんだかほっとした。
渋谷には道を正してくれる人間が居る。僕が居なくてももう大丈夫だ。
元から、渋谷は強くて僕なんか必要なかったのかもしれないけれど
君はたまに正義感で道を間違うことがあるから、誰かがちゃんと止めてくれないと。
ばしゃ…っと水が跳ねて渋谷の声が荒ぐのをただ受け止める。
「何でだよ。お前も、村田が罪を犯したって言うのか!?確かにあのとき、たくさんの人が傷付いたよ!でもそれは…っ村田のせいじゃない!」
「僕のせいだよ渋谷。」
「違う!あれは創主のせいで、お前は眞魔国の為に仕方なく…!」
「方法がたった一つだったと、本当にそう思うのかい?」
長引かせては渋谷の精神的負担が増えるだけだ。
畳み掛けなければと思って顔を上げる。
裁かれる側の僕よりもっと痛々しく歪んだ顔がそこにあった。
「僕は間違えたんだよ。よい方法が他にあったかもしれない。最初に考案したのは僕でない大賢者でも、決断したのは村田健だ。」
「だったら俺もだ!俺がへなちょこじゃなくて、創主なんて一発で倒せる魔王だったら良かったんだ!」
「僕と眞王がそうした。君に力を渡さなかった。最後の切り札にする為に。」
水飛沫が上がって、胸倉が掴まれる。渋谷は理不尽な言い分だと思ったろう。
殴って僕の気持ちを変える事が出来たとしたら君は迷わずそうするだろうね。
でも、生憎君は僕の親友だ。何をしても無駄だと分かっているんだろう?
分かっていてもどうにかしたい、でもやっぱり出来ない。
彼が自己嫌悪に陥る表情が見れずに、目を逸らす。
逸らした目の端で、ウェラー卿が渋谷の肩に手を置いたのが見えた。
振り払おうとしたその手を掴まれて、彼は僕から引き剥がされた。
兵士が戸惑いながらも僕を立たせる。
フォンクライスト卿とフォンヴォルテール卿が決断したらしい。
ありがとう、と思うのはおかしいかもしれないけれど思わず彼等に
そういう意味で笑いかけてしまった。
上手く笑えたかは分からない。
「猊下には…処分が下るまで地下牢で謹慎して頂きます。」
「なんで…っやめろ!やめてくれ!ギュンター!グウェンダル!!」
渋谷の泣きそうなその気持ちだけで十分だと思った。
「村田!!」
「みんなの為になら誰かを傷付けても良かった、じゃないだろ。渋谷。」
暗い闇の底へ突き落とされたような、そんな想いが流れ込んできた。
***
これから裁かれる者に相応しくない凛とした村田の姿に渋谷有利は愕然とした。
眞魔国に戻りたいと単純にそれだけを考えていた自分は何を終わらせたつもりでいたのだろう。
されるがままに創主に取り込まれ、一度は心の闇に呑まれ
ジュリアやモルギフに背中を押されてやっとのことで創主に打ち勝った。
創主を倒したその足で地球に帰ったから忘れていたのだろうか。
眞魔国の民は傷付いた。
その怒りや哀しみは創主を倒したからといって消えるものではない。
まだ終わっていなかったのだ。
地球に帰ってからも彼は護る事の出来なかった者達への責任を感じていたのだ。
まさか、そこまで計算されていたというのか。
生じたリスクに対する責任を、魔王を欺いた大賢者に取らせるところまでが
眞王と大賢者の計画だったとしたら。
スッと背筋が寒くなり、今更ながら村田と自らの運命が恐ろしくなる。
村田の姿が城の中に消えそうになったところで
上から影が射して有利に当たる陽の光を遮った。
「来い、猊下の処分を決める。」
グウェンダルの声はあまりにもいつも通りでそんなハズはないと分かっていても
彼の心が酷く冷たいように思えた。
「…ッ嫌だ。」
搾り出すようにしてようやく出した言葉はあまりにも幼稚で無責任だった。
重い溜息が遠慮なく落とされる。
水を吸って貼りついた服がこんなに重く冷たい物だと思ったことはない。
「嫌でも来い。お前が決断しなければアレは一生牢の中で過ごす事になるぞ。」
「なんで村田だけが責任を取らなきゃならねーんだよ!」
八つ当たりをしている己の無能さが恥ずかしい。
しかし親友だけに責任を押し付けることは出来ない。
目の裏が真っ赤になっていく感覚に有利は目を瞑って耐えた。
「陛下、落ち着いて。何も極刑にしろと言ってるわけじゃないんですから。」
「分かってる…!」
感情の高ぶりに任せて上様になるわけにはいかなかった。
自分の意識があるときに、自分で考えて決断して
そのことに対する責任を追わなければ。
そう頭では考えられるが心がついていかずに有利は涙を零した。
心を痛めながらも笑顔を絶やさなかった親友とはあまりにかけ離れすぎている。
その場に立ち竦んだまま泣き出した不甲斐ない魔王の胸倉をグウェンダルが掴む。
お前のせいだと、親友の代わりに責められたいと思っているのに
真実を突きつけられるのがどうしても怖くて、有利は反射的に顔を逸らした。
カッとグウェンダルの気が立って魔王を地面に突き飛ばす。
「お前は魔王だろう!恩赦法を行使するにもお前の署名なしではどうにもならんのだ!」
上から怒鳴りつけられた恩赦、という意外な言葉に有利は漆黒の目を見開いた。
涙でぼやけてはいるがグウェンダルのそれは気休めではない。
村田の罪を出来るだけ軽くしようという意志が読み取れる。
「世論が許さぬのなら国外追放として地球へ送り返せ。異世界でどうしているかなんてお前以外分からないのだからな。」
「陛下…大賢者の地位を剥奪というだけでも民は納得するでしょう。眞魔国では陛下の次の位でありますから…。」
「尤も、俺はそんなことしなくても民は誰も責めないと思うがね。猊下は重くみていらっしゃるようだが、創主に打ち勝った事実の方がよっぽど大きいさ。」
最後の名付け親に至ってはウィンク付きで有利に微笑みかけている。
少しだけ力を抜き、再びグウェンダルを見上げると居心地悪そうに顔が顰めなおされた。
その表情で有利にようやく考える気力が戻ってくる。
涙も見せたことだし、甘ったれた発言をしてももう変わりはないだろう。
情けないことだとは思うが言うだけ言っておいた方がよい。
「刑が軽かったとしても村田は前科者になるんだろ…?俺そんなの…。」
「親友の間で隠し事をしたから一週間遊んでやらない。」
「は?」
「そんなもんでいいんです。誰も猊下を咎人だなんて思っちゃいない。なんとかの刑が嫌ならおしおきとても書けばよいでしょう。」
「それで裁いたことにすればいい。アレが納得しなければ魔王の命に逆らうのかと突き返してやれ。」
あんまりな物言いに有利はしばし口を開けて呆けた。
事態は自分が突きつけられたと思った大きさではない。
漫画の世界でも映画の世界でもなくて、ちゃんと手の届く問題だ。
村田があまりにも気負っているから絶望的な物だと錯覚しかけてしまった。
無論笑って済ませられる政など存在しないが
自分には出来ないと悲観して泣くようなことではない。
「責任は俺が取る。」
「死罪と魔王辞任以外でしたら。」
「辞めないよ。それは、責任逃れだからな。」
***
ヨザックは馬を走らせた。
既に速度は上がりきっていたが何度も鞭を入れ手綱を握りなおす。
帰ってきたのだ。
血盟城が見えるほど城下に近い距離で鳩を受け取ったのは初めてだ。
上司ではなく腐れ縁の幼馴染の字が自分を丘から走り転げさせた。
あの人が帰ってきた。
裏切られた、と苛立ちを募らせ国宝級の絵を切り刻んだこともあった。
一人で全てを背負い込み、皆を欺き、眞王に魂どころか村田健の人生も差し出していたと知ったときのこの気持ちを地球に帰ってしまった貴方は知る由もないのだと責めたててやりたいと思ったこともある。
それと同時に、何故気付いてやれなかったのかという己の至らなさに
何度臍を噬んだことか。
この何ヶ月も苛立ちや後悔がとぐろのように渦を巻き、もう決して会う事のない
村田への想いは少しも風化してくれやしなかった。
それが、あの人がこの国に帰ってきたと?
元よりヨザックは眞王陛下の存在を神だと崇めたことはない。
魂も消失した今となっては神の存在など信じ難いだけだが、
今日だけは神の慈悲に感謝して眠る前に星に祈りを捧げたいと思う。
双黒の帰還で騒がしい城に着き、馬から飛び降りるとヨザックが帰還したら知らせるように言われていたのか、ウェラー卿配下の一人が執務室に駆けて行こうとする彼を慌てて引き止めた。
「お待ち下さい!猊下は自らの拘束を申し出て地下牢にいらっしゃいます!」
「…っあの人は!」
「グリエ殿!!!!」
告げられた事実はヨザックに衝撃を与えはしなかった。
またそういうことをして、という怒りは湧いてくるがそういうことをするのが彼なのだ。
一人で勝手に決めて、自分だけの責任にしようと大切な人間は決して中に入れない。
大切、ということが村田には重過ぎるのだ。
身も心も全て大賢者として生きることが出来ない半端な部分が
村田健を締め上げて苦悩の末に一人になることを選択させる。
扉の前で立ちふさがっていた門番から力づくで鍵を奪い
地下に続く階段を駆け下りる。
螺旋で堕ちていく地下牢に灯りが灯っていた。
いつもと兵の数も表情も異なっている。彼らの制止を振り切って突き進むと
ぼんやりと夢にまで見た双黒が浮かび上がった。
階段を駆け下りてきた勢いのままに檻に飛びつくと、闇の中で膝を抱えていた村田の身体がビクリと強張る。
鍵を開けようとしているヨザックと止めようとしている兵士の争う声に
上からも人が降りて来た。
彼の帰還の知らせが届いたのか、魔王の声が混じる。
村田は時折上がる怒鳴り声にただ身を強張らせるだけで
眼前で繰り広げられる展開をただじっと見守っていた。
ヨザックに弾き飛ばされた兵士に気をやった瞬間、錠が落ちた。
視界がヨザックで一杯になるが逆光で顔が見えない。
何も言わずに胸倉を掴まれ、振り上げられた右手に歯を食いしばる。
殴られても仕方ない裏切りを彼にはした。
創主を倒し、渋谷有利を魔王にするまでは大賢者として生きなければならなかったのに村田健として彼に手を伸ばしてしまったから。
己の甘さが民だけでなく彼の心を傷付けた。
殴って少しでも気が済むのなら殴ればいい。
もし彼の手で死ねるのなら、これ以上の幸せはないのかもしれない。
裁かれる側にある自分が死に方に幸せを見出そうなんて不謹慎だろうか。
それ以前に死ぬな、と魔王は言うだろう。
しかし自分にはもう充分だ。
何人の大賢者たちが、理解されぬまま誰とも心を通わせることなく生涯を終わらせたか分からない。
友を得て、全てを理解され、愛しい人に触れられた。
それだけでもう村田健は充分幸せだった。
勝手だと罵ればいい。そうされた方がいい。
「…っ!!」
「ヨザック!」
渇いた音が耳のすぐ近くで破裂して、首から上に遅れて、身体が傾く。
頬を打たれた衝撃で肩から石畳に叩きつけられ痛みが身体を突き抜ける。
有利が彼を制する声が聞こえた。魔王陛下の腕を振り払ったヨザックに
目が開ききる前に強い力で引き起こされ、村田は次の衝撃に耐えようと
目を瞑って待った。
「俺と結婚して下さい。」
目を開くと、冷たい牢の壁とオレンジの髪が目の端に入っている。
訪れたのは逞しい腕に包まれる温かさだった。
確かめるように彼が自分に頬をすり寄せて何度も何度も
大きな手が自分の頭を慈しんで撫でている。
「な…に……。」
ぐるぐると考えが巡って、声が震える。
「眞魔国の求婚ですよ、忘れちまったんですか?あ、貴族じゃない俺がすると求婚にならないんすかね。」
「なんで…っ」
力の入らない手でヨザックの腕を掴んだが、彼の腕は一層愛しそうに
村田を抱き締め返した。
「放せ!僕はもう…君とは…僕は、皆を騙して…。」
「えぇ、お庭番なのにすっかり騙されちまいました。この分だと俺って尻に敷かれてくんでしょうね。」
「ダメだ、放せ、僕はダメだ、ダメなんだよ。」
混乱のあまり言葉が上手く紡げない。浮かんでくる単語をそのまま零していくだけで
村田はヨザックに応えることが出来ずにいた。
責められるのだと思っていた。
彼だけはいつも、自分に対して馴れ合うことなく真実を突きつけてくれた。
だから、許してくれないと思っていたのに。
魔王が許しても、王佐や三兄弟や民が許してもヨザックだけは
アンタは間違っていたと言ってくれると思っていたのに。
叩かれた頬が熱くなってくる。
「どうして…っ。」
「もう大賢者としての役目は終わったんですよ。」
「終わってないよ、全然、何も出来なくて、僕のせいで。」
「ムラタケンに戻りましょう。ずっと大賢者だったせいで分からないならこれから俺と探しましょう。」
「ダメだよっ僕は、償わなくちゃならないんだ。」
「俺のこと、嫌いですか?もう好きじゃありませんか?」
本当のことを教えて下さい。
囁きに硬直した背を摩り少し腕を緩め、ヨザックがこめかみに唇を押し当てる。
あまりのことに声が出ない。
思考回路が止まった村田が弱々しく首を振るとヨザックは優しく微笑んだ。
何かを言おうとして、何を言ってよいのか分からなくて、村田は苦しそうに
何度も口を開いては閉じてを繰り返した。
愛されることに戸惑う迷子の子供に余計な言葉をかけてはいけない。
何度も髪や頬に口付けると、村田はやはり幸せを手にすることを恐れて頭を振った。
それでもヨザックは背を撫ぜ唇を寄せ続ける。
「な、なんだよヨザックー村田がフルボッコにされんのかと思っちまったじゃんかー。」
「一世一代の求婚をなんだとはなんですかぁ。」
腕を振り払われた形のまま固まっていた魔王がようやく我に返って長く息を吐いた。
村田に口付けるのを一時中断して振り返ったヨザックは
魔王の真っ赤な瞳に安堵した。
村田を裁けないだろうと思ってはいたがこの目で見るまで確信は出来ない。
自分を見て泣きそうな顔で笑ったヨザックに、有利は顔を引き締めて告げた。
「村田健。お前の大賢者の地位を剥奪し、その任を解く。今後、政の一切に関わることを禁ずる。これより先は一人の民として慎ましやかに暮らし眞魔国の繁栄に生涯を捧げよ。最後にひとつ、」
グリエ・ヨザックと結婚して幸せになれ。
それが眞魔国においての村田健としての始まりだった。
2007.12.17
まずはプロローグということで、こんなんを少しだけ入れさせれて頂きます。
村田の罪の意識とか有利の責任とか云々はこの先でゆーっくり少しづつ
表していきたいと思いますのでまだ突っ込まないで下さいねん。
連載ではなくてこの先は一話完結系になると思います。
次の更新からは明るくなりますので、どうぞお楽しみ下さい。
陛下の命令は彼の咄嗟のアドリブなので言葉遣い等はおかしくなっております。
これをあとでどうにか王佐と三兄弟が文書化するよ(笑)
次から
ヨザックと村田の結婚生活が始まります。
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