努々、油断なされるな。


ドン…重い本が机に置かれた音だ。
グウェンダルはそれに顔を上げ、目が合ったケンは小さくごめんなさいと謝った。
首を振り怒ってはいないと否定すると彼はほっと胸を撫で下ろして
自分の傍らに積まれている次の本に手をかけた。
机に置いた物と同じ厚さの本が膝の上に圧し掛かる。
幼い彼が読むには少々複雑過ぎる眞魔国の歴史、全30巻は
ただ今7冊目に差し掛かった。
小さくて可愛いケンは本が読みたくなるとグウェンダルの執務室を訪れる。

「…なんだ?」
「なんでもない。」

視線を感じて再び顔を上げると、ケンは慌てて本で顔を隠した。
本を読んでいる最中、ケンは時折グウェンダルを見つめる事がある。
最初はわけが分からなかったグウェンダルだが、どうやら自分には父親を思わせる何かがあるらしい事に気がついた。
両親恋しさに度々部屋を訪れるケンをグウェンダルが追い返せるわけもなく、グウェンダルの執務室のソファーはすっかりケンの定位置になってしまった。
今では三時のおやつもこの部屋に運ばれてくるし、ケンの為のひざ掛けやクッションも備えられている。
どんなに部屋が侵食されてもグウェンダルはそれを甘受した。
理由はひとつ、ケンが小さくて可愛いからだ。疲れた目が癒される。
新しい本を手にしてからまだ数ページしか進んでいない所で
ケンはヴォルフラムに貰った栞を挟んで席を立った。
「トイレ行って来る。」
「あぁ。」
てててっと扉に駆けて行く姿も、ドアノブに一生懸命に手を伸ばす姿も可愛い。
どうにか、どうにかあのまま16歳に戻ってくれまいか。
運命の重さを考慮すると多少の捻くれは仕方ないと思う。
が、せめて半分。
大人しくて素直で可愛いケンの要素が半分だけでも16歳の大賢者に見られたなら。
ヨザックとは反対にグウェンダルは4歳の大賢者を16歳の大賢者に望んでいた。



兵士が付き添うと言うのを断ってケンはトイレに走った。
間に合わないわけではないがトイレに行くときケンは一人だと走って向かう。
誰も居ないトイレの奥から二番目を選び用を足し手を洗った彼は
ふと出ようとしたトイレを振り返った。
4000年前と全く同じとはいかないが、ケンは此処を知っている。
古い記憶にある此処を重ねて彼はトイレに入りなおした。
初めて来たときは深く追求しようと思わなかったのだが
今日はなんだか思い出に誘われているような不思議な気分だ。
此処に関する思い出は血生臭くない。
一番奥の個室、便器の後ろにある壁と対峙して、ケンは瞬きをする。

此処にあるのは隠し通路だ。

眞王が面白がって血盟城にいくつか作らせた物の1つで
いつだったか執務を脱走した彼を探して大賢者はこの通路を見つけた。
そっと、彼が昔そうしたように手で板を押してみる。
キシ…それは軋む音を立てただけで開かなかった。
随分古くなっているので無理もない、ケンは先程より力を入れて板を押してみた。
ギッ…もう少しで動きそうな気がする。
手の平だけで身体を支えるように体重をかけた瞬間、
板は割れるような音を立てて回転した。
「わ…っ!!」
支えのなくなった身体が開かれた暗い闇に落ちていく。
浮遊感の後に急激に落ちていく感覚。
驚きすぎて息を詰まらせたケンは声を上げる事も出来ずに闇へ堕ちた。

ボスッ。

音と共に、埃っぽい匂いが舞い上がって見えないのに思わず手で辺りを掃う。
落下したせいで心臓がドキドキと早鐘を打っている。
こく、と唾を飲み込み、ケンは高鳴っている胸の辺りの服を右手で掴んで上を見上げた。
光は見えない。板は回転してまた閉まってしまったのだろう。
もしかしたら思ったより下に落ちてきて光が届かないのかもしれない。
ケンは一度目を瞑って埃を吸い込まないように深呼吸した。
ドキドキが僅かに鎮まったのを感じて目を開ける。
暗闇の中に、ぼんやりと壁が浮き上がった。
早く目を慣らすには閉じてしまうのが一番だ。
埃だらけのマットのような物の上から慎重に足を降ろし右の壁に手をつく。
上に向かって叫んでもきっと声は届かない。
暗闇に一人で迷い込んだケンは酷く冷静だった。
彼はこの道が最後に何処に繋がるかを知っている。
今泊まらせて貰っている場所はどう見てもお城だ。
外に出てお城に行きたいと言えば誰か道を教えてくれるに違いない。
そう考えて、彼は助けを待つより外に出ることを選択した。



ケンが戻ってこない。
もう悠に20分は経っている。ケンの座っていたソファーには読みかけの本。
遊ぶ場所を変えるにしても彼は必ずお片付けをして
自分が訪れたときと同じに整え挨拶をして出て行くのだ。
この城は広い、何かに気を取られて見に行った先で迷子になったのかもしれない。
小さくて可愛い彼の所在を不安に思ったグウェンダルは立ち上がった。
「ケンは出て行ったきりか。」
「は、少なくともこの部屋の前には。」
「…少し探してやってくれ。城の中で迷ったのかもしれん。」
見張りの片方を走らせたが、グウェンダルは自らも彼を探す事にした。
彼の身を案じている間は集中しきれない。
「すぐに戻る。」
小さな彼の脚で行ける範囲など知れている。
すぐに見つけられるだろう。
そう軽く考えたグウェンダルだが、ケンは30分経っても見つからなかった。
行けそうな範囲を探して戻ってくると走らせた兵士も彼を連れては居ない。
盛大に寄せられた眉間の皺は兵士への非難ではなく真にケンの身を案じてだ。
まさかこの城に刺客など入るまい。
魔王の執務室に赴き有利やヴォルフラムに尋ねても彼の所在は分からなかった。
嫌な予感が背中に迫ってくる気がする。

「使用人達にも聞いてみたんですが誰もケンを見てはいないと。」
「門の兵も見てないと言っているぞ。」
「はぁ?じゃあ村田はどこに消えちゃったわけ!?」
「俺にはただ用を足しに行くと…。」
「あぁ猊下!私の小さな猊下が行方不明だなんて!!」
メイドも兵士も総動員して城を隈なく探したが彼は見つからない。
「不審者は居なかったかもう一度確認しろ。ケンが一人で勝手に外へ出るとは思えない。誰かに連れ攫われた可能性もある。」
意外と子供好きのヴォルフラムが長男そっくりに眉を寄せている。
ケンの性格からして皆を困らせるような行動を取るとは思えない。
何かの事件に巻き込まれたのだ。
「まさかあの姿でスタツアとか?それはそれでマズいぜ。」
「眞王廟へ使いを出しましょう。魂の場所が分かれば闇雲に探す必要はなくなります。」
「眞王陛下なら何かお分かりになるかもしれませんしね。」
有利が最後の可能性に腕を組んで唸った。
真っ青になったギュンターは触れたら壊れてしまいそうで不謹慎ながら美しい。

「おーい、坊ちゃーん。ちょっと来て下さいよー。」
いつも通り間延びした声のヨザックが廊下の角から手招きをしている。
村田が最初に向かったと思われるトイレの方向だ。
「?ヨザック、何か見つかったのか?」
「中を調べてみないとなんとも言えませんがね。ほら。」
「うわ、なんだよコレ。」
「隠し通路…か?」
ガコっと押されて出て来たのはどこへ続いているのか分からない穴だ。
下を覗き込んでみたが暗いばかりで何も見えない。
「おーい、ケーン!!」
声は下へ下へと響いて落ちていくだけで返っては来ない。
「こんな物よく見つけたな。」
「現場百回って言うでしょー。迷ったときはまず現場っすよ。」
「ベテラン刑事の心得かよ…降りんの?」
「勿論降りますよ。可愛い猊下が怪我して動けなくなってたら大変ですからね。」
「ならば俺も行こう。お前では治癒魔術が使えんだろう。」
「親分落ち着いて下せぇ。まだ下にいらっしゃるか分からないんですから。」
格好悪いが便器に縄を縛り付け、もう片方を穴に放る。
「いってきます。」
「気を付けろよヨザ。」
「呼んだら助けに来てねん、たーいちょ♪」
タン、と一度壁に足をつけたあと、ヨザックはシューっと滑り降りていった。
思ったより早く底についた。足場を確かめるとマットのような物が敷かれている。
懐からマッチを取り出し火をつけると目の前に細い道が続いていた。
マットから降りずに地面に火を近づけ調べると小さな足跡が埃を擦っている。
十中八九、小さな大賢者はここに落ちて前の道を進んだハズだ。
「陛下ー!聞こえますかー!!」
「おー!村田はー?」
「ここに落ちたのは間違いありませんがどっかに出ようとこん中を進んじまったみたいですー!!追っかけますからランプ降ろして下さーい!」
「僕が降りれば火が使えるが…。」
暗くて埃だらけの穴の中に降りるなど昔のヴォルフラムなら絶対に言い出さなかった。
自ら行くと言っても降りたら何だかんだと煩くしてヨザックの迷惑になりそうだ。
どうしようかと有利が思案を巡らせているとトイレにダガスコスが駆けて来た。
「失礼します!眞王廟から連絡がありました!」
「村田どこに居るって?」
「魂はこの王都に、それと眞王陛下より隠し通路は全て城下に繋がっている事をお伝えするようにと!」
「城下に?マズいな、双黒のケンが一人で街に出たらどうなるか分からない。」
ここが地球ならいつ見つかるか分からない通路の中で待ち続けるより
先へ進んで外へ出るほうが正しかっただろう。
だが、ここは眞魔国だ。
完璧な双黒に東洋人顔の幼児が突如街に現れればどうなるか。
魔王及び大賢者の親類か、と血盟城に連れてきて貰えればいいが
危ない売人に不老不死の薬、と売り飛ばされる可能性もある。
ケンはかなり危ない道に進んでいた。
「じゃあ俺とヴォルフは街で探そう。グウェンは?」
「ここを降りる。」
「うん、じゃあコンラッドかギュンターは城に残ってくんない?」
「私は陛下と共に参ります!!!」
「必然的に俺が留守番ですね。ヴォルフ、陛下を頼んだよ。」
「お前に言われるまでもない。行くぞユーリ!早くケンを保護するんだ。」

それぞれがケンの身を案じて散った頃、彼は城下を彷徨っていた。



行き止まりだ。
壁を手に歩き始めてから何分ほど経ったのかもケンには分からない。
闇は感覚を鈍らせるから嫌いだ。
落ちてきた穴と違って上に続く空洞には梯子がかけられていた。
こっそり出た後は必ず街で連れ戻される事を計算した作りで
大昔の大賢者の苦労が覗われる。
「ん…っしょ…。」
梯子に捕まったまま片手を天井に伸ばし力を入れる。
差し込んだ光が目に痛くて慌てて目を瞑り、ゆっくりゆっくり光に慣らしながら開く。
空が見えた事に安堵して穴から這い出した。
暗闇の中をたくさん歩いて体力も精神も疲れていた彼は
地面に座り込んだままきょろきょろと辺りを見回す。
どこかの建物の裏のようだ。向こうの方から人の声も聞こえる。
一分ほど座り込んで休憩したケンは重い腰を上げて再び歩き出した
「…ここどこ。」
見慣れない建物が並んでいる。見上げると向かい合わせの建物の間に紐が渡され
洗濯物がはためいている。
彼は城下街の中でもあまり栄えていない裏通りに出てしまったようだ。
周りの建物が高くて城を探せない。
とにかく人に出会おう、と一人で城に帰ることをケンは早々に諦めた。
「あ。」
自分より少し上の年齢の子供が道に絵を描いて遊んでいる。
大人より聞きやすそうだ。言葉は城で使っているものでいいだろう。
「あの…。」
恐る恐る近付いて声をかけると、顔を上げた二人が目を丸くした。
それは声をかけられた驚きではない。
何か信じられない物を見るような顔にケンは言葉を詰まらせる。
言葉が違ったのだろうか?埃だらけの道を通って来て汚れているせいだろうか?
「お城…っどっち行けばいいか、分かりますか。」
恥ずかしさで途切れ途切れになったが言い切った。
「黒だ…。」
「双黒でお城!陛下や猊下と同じとこから来たのか!?」
「う…?陛下って有利お兄ちゃん?」
「お兄ちゃんってことは、ユーリ陛下の弟だよきっと。」
「陛下に弟君がいらしたなんてはじめて聞いたぜ!」
自分の言葉に子供が石灰を放って立ち上がる。
先程とは打って変わって瞳はキラキラと輝き顔中が何かしらの期待で満ちている。
瞳の色を確認するように覗き込まれ思わず瞬きをすると
にへーっと彼等は嬉しそうに笑った。
「ガラスは入ってないし、睫も全部黒だ!間違いない!陛下の弟だ!」
「弟じゃない。」
「違うの?」
「僕は村田健で…。」
「ムラタケン?ってことは、猊下の?弟なのに同じ名前なのか?」
さわさわ、何故彼等は必要以上に髪に触ってくるのだろう。
それにさっきから話が噛み合わない。
彼らの知り合いに同姓同名のムラタケンが存在するのだろうか。
自分の名前を言って自分の弟と言われるなんて意味が分からない。
だが彼らが陛下と呼ばれている渋谷有利を知っていることは分かった。
もう話がこんがらがったままでもいいから城の場所を教えて貰おう。
「あの、お城…。」
「血盟城に?お前そっから来たんだろ?」
小さく頷くと子供二人は顔を見合わせる。
双黒の子供は緊張でほっぺたを真っ赤にして手を強く握り絞めていた。
護衛とはぐれてしまったのだろう。
「来いよ。お前のこと、多分兵士が探してる。」
「大きな通りから城に行けばきっと途中で会えるよ。」
ズボンで拭った手を差し出されて村田はそろそろとその手を握った。
赤毛の子供がポケットから飴を出してくれた。
「偉い人の口に合うかは分かんないけど。」
「…美味しい。」
口の中で飴をコロコロさせてはにかんだ笑みを浮かべるケンに
手を繋いでいた子供もはにかんで笑う。
「そうだ、僕の帽子貸してあげるね。今の時期は街に他所の商人が多いから。」
「多いとダメなの?」
「お前を人質にして金を要求するかもしれないだろ。黒はそれだけで価値がある。」
この国ではどうやら黒い髪と黒い瞳が珍しいらしい。
確かに、ここに来てから黒い髪と瞳は渋谷有利しか見ていない。
外国だから仕方ないか。
貸して貰った帽子は思ったより大きく、手で持っていないと
目の下まで落ちてきてしまう。
顔の半分が隠れてしまっている可愛い姿に赤毛の子供より穏やかな
金髪の子供が笑った。
「ちょっと大きかったね。」
「目も見えにくくなって丁度いいだろ。早く行くぞ。」
手を引かれて裏通りを抜ける。
どうやら赤毛の子供はちょっとした任務を遂行している気分のようだ。
物陰まで走って移動して、辺りを覗ってまた飛び出す。
「大通りに出るまでは普通でいいんじゃない?」
「バカ!出てからじゃ遅いんだよ!」
「?」
「御免ね。ちゃんとお城には行くから。」
「うん。」
「よし!」
隠れながら街を進む途中、赤毛の子供は唐突にケンの手を離して一人で駆け出した。
「あれ?」
「あー…。口の中の飴はもうない?」
「ない。」
「じゃあ良かった。おいで、おやつが貰えるよ。」
一人で駆け出した彼は辺りを覗いながらパン屋の扉を後ろ手に開け、素早く身体を潜り込ませた。
「なんでぃコソコソして、母ちゃんにでも追いかけられてんのか?」
「違ぇよ!おっちゃん!ミミ揚げたの頂戴!!」
「はいよ。あんまり悪戯すんじゃねーぞ。」
「俺は今、眞魔国でもイチニを争う重大任務を遂行中だ。」
窓の外を覗いながら言う彼に、昔自分もそういう遊びをした覚えがある
店主は大きな腹を震わせて笑った。
「ははは、そりゃ大変だ。で?そっちの見慣れねぇ奴は新しい友達か?」
「!?何で出てくんだ!」
「精々頑張れよー。」
店主の言葉に振り返るとガラスの向こうで普通に二人が待っていた。
おかしな動きをしながら彼は慌ててパン屋を飛び出し、幼馴染の襟首を引っ張って建物の隙間に戻る。
手に握られているのはパンのミミを揚げて砂糖を塗してある菓子だ。
揚げたてではないがシナモンの匂いが子供の食欲をそそる。
「出て来んなよ!バレたらどうすんだ!」
「それよりそれどこで食べるつもり?早く帰してあげなきゃいけないのに。」
「男は黙って歩きながらに決まってるだろ。」
「猊下の弟に行儀悪い事させない。…いいよ、僕ん家寄ってこ。こっからなら城に向かう方だし。」
「うむ、協力を感謝する、少尉。」
「…行こう。」
「普通に歩き出すなよ!」
「煩い。コソコソしてる方がよっぽど不審。」
「だーっ!」
二人連れは片方がボケで片方がツッコミ、は万国共通のようだ。



ランプの灯りはレンガの道をただただ照らしていた。
眉間に皺を寄せたままの上司の心も温かく照らしてくれれば有難いのだが
そんな物で彼の眉間の皺が取れるのなら眞魔国中のランプを買い占めてみせよう。
「猊下は一体どこまで行っちゃったんでしょうねぇ。」
「分からん。この通路はどこに繋がっているのか。」
「眞王陛下は街とおっしゃってましたけど…カルタは?」
「まだ何も。」
「見つかればすぐ騒ぎになりますよね。」
「あぁ…まだこの中に居る確率は高い。」
こんな狭くて暗い道を小さくて可愛いケンが灯りも持たずにだなんて。
グウェンダルは不安げに顔を歪ませる彼を思い浮かべ、眉間に皺を寄せ直した。
「ケン…。」
彼を案ずる小さな呟きにヨザックは肩を竦める。
この上司が一番冷静さを欠くのは小さくて可愛いモノが絡んだときに違いない。
「猊下は随分と親分に懐いてて羨ましい限りですよ。」
「俺はどうやらケンの父親に似ているようだ。」
「猊下の?坊ちゃんのお話では背はそんなに高くなくて割腹がいい方とお聞きしましたけど?」
「容姿ではない。ケンはいつも父親が仕事をしている部屋で本を読んでいるようだ。」
「…遊んで頂いてるんじゃないってのが、猊下らしいですけど。何にせよ羨ましいっす。」
小さくなってしまった恋人に自分はすっかり嫌われてしまった。
自嘲気味に言う部下にグウェンダルは慰めの言葉はかけなかった。
「子供は己を映す鏡だ。ケンがお前を避けていると言うのなら、お前もケンを避けているのだろう。」

「何故名前で呼んでやらん。」

沈黙を嫌ってか、言葉が纏まるまでヨザックは意味のない唸り声を上げた。
炎が大きく揺れ、オレンジの光が彼の影をも揺らす。
「凄く自分勝手に…猊下のお名前は大事だって思ってるんです。」
「…。」
「猊下に言ったら笑い飛ばされそうですけどいつか、猊下が猊下でなくムラタケンとして生きていてけるようになったときにお呼びしたいなぁと。」
「女々しい、と言うのは女性蔑視か。」
カツ、と靴の音が響く。
全面否定の形で返してきた上司にヨザックは笑った。
ランプの光が小刻みに揺れる。
うっかり吐いてしまったカッコ悪い弱音に親身になって慰められたら
それこそ自分を情けなく思って惨めになってしまう。
「そうよねーん。でも閣下ったら遠慮なさ過ぎー。グリ江は優しいから今の女々しいはアニシナちゃんには言わないであげるけどねん。」
「猊下と結婚…お前はどれだけ俺の頭を痛めれば気が済むんだ。」
「うふふ、ただのお庭番のグリ江と双黒の大賢者様じゃ大問題。応援してくれるのは陛下ぐらいかしら。」
「その苦労を思うだけで胃が痛くなってくる。何故よりにもよって俺の部下と…。」
「なんでかしら?きっとグリ江が魅力的だからね。」
「…ケンに情操教育を施す。今のケンならば道を踏み外すことはないだろう。」
「どういうことっすかぁ?」
「ケンは日々人の顔色を伺い、愛情に飢えていても手を伸ばせない。」
「そっすね。いつもいい子で我慢の子。それが要領いい子になって、最終的には腹黒い子になりますけど。」
「精一杯の愛情を注ぎ、満たしてやればどうなると思う?」
「はぁ?」
「元に戻ったとき、素直で可愛い大賢者が出来上がる。」

ズルッ。

ヨザックの靴が古くなった地面を削った。
振り返ると至極真面目な上司の顔。
彼の本気を感じ取ったヨザックは半開きになった口を閉じ、恐る恐る伺った。
「俺の可愛い猊下の面影はどれぐらいに?」
「…さぁな。」



「お邪魔しまーす…。」
「誰も居ないみたいだから、遠慮しないで。」
まるで童話のような可愛らしいお家の中は暖炉や木造の家具ばかりでケンは物珍しそうに部屋を見回した。
記憶にあっても実際に触れるのでは全く違う。
赤毛の子供は来慣れているのか、勝手知ったる他人の家と
勝手に棚からグラスを拝借している。
それを黙認した一日少尉殿は庶民の家で口をぽかんと開けているケンの肩を叩いた。
「僕の部屋に行こうか。母さんもすぐ帰ってくるだろうから。その帽子、落ちてきて邪魔だろ?」
「牛乳貰っていいかー?」
「三人分ね。」
「分かってるって。」

ベッドと机と棚しかない質素な部屋だったが、ケンは城で自分に宛がわれている広すぎる部屋よりよっぽど居心地がいいと思った。
丸く敷かれた絨毯の上にお尻をつくと、重圧がなくなった足の裏に痺れるような感じが広がった。
石の道をたくさん歩いて実は痛くなっていたのだ。
「大丈夫?」
「うん。」
「おーい、開けろー!」
「はいはい。ほら、ええと、ケンでいいの?牛乳。」
「ありがとう。」
受け取った牛乳を一気に半分ほど飲み干して、息をつく。
改めて牛乳に口をつけて一生懸命な彼を見て
赤毛の子供は自分の牛乳もケンの横に置いてくれた。
「お前どんだけ迷ってたんだよ。」
飲み干されたコップを手の中から奪い、次のコップを握らせる。
がさつな彼は面倒見はいいようだ。
申し訳なさそうに一度躊躇ったが、ケンは結局それに口をつけた。
それも半分ほど飲んだところで彼の渇きはようやく満たされた。
「お城…皆は知らない道があって。」
「隠し通路?へぇ、そういうのって本当にあるんだ。」
「城じゃなきゃ行こうぜっつーんだけどな。」
「バレたら侵入者で打ち首になっちゃうからね。」
「隠し通路から来たなら今頃城は大騒ぎだろ。お前大人しそうな顔して意外とやるな。」
けたけたと笑って、パンのミミを口元に寄せられケンはほっとした。
今すぐ帰れと怒られたらどうしようかと思ったが
二人は好きなようにさせてくれるらしい。
安っぽい砂糖と牛乳は畏まった焼き菓子と紅茶より親しみやすい。
子供同士で話すのも久し振りだ。
「これ好き。」
「そっか。まぁゆっくりしてけよ。お城じゃ何かと大変なんだろ?」
お城じゃ何かと大変、は親の受け売りであって彼の知識ではない。
知ったかぶりとゆっくりしてけって僕の家なんだけど、という台詞を
一日少尉殿は牛乳と一緒に飲み込んだ。
「お城かぁ…ユーリ陛下は優しい?」
「俺は前に一回だけ会ったぜ。真っ黒でキレイなのに気さくに話し掛けて下さるんだ。」
「お前に聞いてない…黒だったらケンの髪もキレイだね。」
「黒いだけだよ?」
「それがいいんだろー。有り難味が分かってねーな。」
ぐりぐり。癖っ毛をかき回されて手の温もりが少し照れ臭くなる。

ここに来てから親は居ないが新しいお友達とお兄ちゃんはやたら増えた。
毎日褒め殺しにあってたくさん遊んで貰って、これで両親が居れば言うことない。
暗闇を歩いている間は皆がきっと心配するだろうという罪悪感で
心が痛かったが、ケンもやはり男の子、一人であの道を冒険してきたという事実は
思い出すと何か誇らしくなるものだ。
誇らしくて今更この状況にワクワクしてきたのに、子供の身体とは不思議な物で
ケンはあくびを1つした。
たくさん歩いて疲れてしまったのだろう。
窓から兵士が見えたら起こすと約束して二人はベッドを薦めた。
横になるとすぐに寝息が聞こえてきて小さな肩が規則正しく上下しはじめる。
小さくても美形は美形。天使と見紛うような寝顔に
二人も今更この任務の重要性に気付いた。



彼等は魔王+その婚約者+王佐の組み合わせで移動してはいけないことをすっかり忘れていた。
「すいませーん、なんか背がこんくらいの双黒の子供とか見ませんでしたか?」
「きゃ!陛下!」
「おい女!頬を染めるな!ユーリの質問にだけ答えろ!」
「怒鳴るなよヴォルフ。すいませんコイツ嫉妬深いもんで。」
「何ぃ!お前が尻軽だから僕が管理してやってるんだろう!」
「お止めなさいヴォルフラム、見苦しい。」
「いつも汁を垂れ流しているお前に言われたくない!」
「何ですって!?」
「あーあーあー二人で喧嘩しないー!」
人探しの基本である聞き込みすらマトモに出来ない。
捧げ物もだんだん増えていくし、それに含まれる食べ物をどっちが毒見をするかで言い争うし、二人とも帰れと言ったらもっと煩く喚き始めることだろう。
ヴォルフラムの噛み跡が付いた饅頭を手に道でしゃがみ込む。
喧嘩している。今見上げている二人が。飽きもせず。
ちなみに有利はそれを根気よく仲裁することに飽きた。
飽きたが、迷惑を被っている国民の手前、止めないわけにはいかない。
「旨い…。ヴォルフー食べかけだけどこれ半分やっから喧嘩すんなー。」
「お前の食べかけだと!?」
「やっぱダメ?じゃあ新しいの…。」
「貰う!」
投げやりの仲裁だったがヴォルフラムの口は饅頭が塞いで静かになった。
関節キスに王佐は涙して溶けた。
今のうちにヴォルフラムだけ引っ張っていったら…王佐が可哀相で出来ない。
自分の人の良さを呪いたくなるときはギュンター絡みの事柄が多くて困る。
ヴォルフラムの袖を掴んで立ち上がると、婚約者は食べかけの饅頭の最後の一口を放り込んでいた。
「ヴォルフは俺が信用出来ねーの?つーかこれじゃ村田が探せねぇ…。」
「信用はしているがお前が言い寄られているだけでも僕には耐えられない。」
「お前が居るのに誰が言い寄ってくんだよ。それにそこらのお嬢さん方じゃとてもじゃないけどお前の可愛さには敵わないですから。」
光を受けて輝いている頭を強めにかき回して天使の輪を壊す。
睨みながらも頬を染めてされるがままになっているヴォルフラムは可愛いが
そろそろ本当に村田を見つけないといけない。
カルタも反応しないし鳩も飛んでこないのだからまだ村田の手がかりは掴めていないのだろう。
市場は既に往復して入り口に戻って来た所だ。
「どうする?市場はもう諦めて今度は住宅街に…あ。」
「ん?」
「陛下ー閣下ー。」
「ヨザック!グウェン!村田の手がかり掴めた?」
「出口のあった裏通りに近いパン屋が見慣れない子供を見たってんです。子供二人が一緒に居て、片方の家には行ったんですがまだ帰ってないと。」
「これからもう片方の家に行く所だ。この近くだがお前達も来るか。」
「マジで?行く行く。俺達は手詰まりしてたから。」
そしてこの婚約者VS王佐の蟻地獄から抜け出したい。
言葉には出来ないがグウェンダルは何か察したようで苦虫を噛んだような顔をした。

市場から1つ向こうの通りにキニーという名の子供が居る。
その名前だけで有利は軽くテンションが上がった。
ちなみにキニーは西武ライオンズの外国人選手だ。
ポジションはピッチャー。それを聞いたヴォルフラムは機嫌が悪くなった。
魔王陛下が婚約者・王佐・摂政を連れて練り歩いていると
ただの道も自然と騒がしくなる。
「…ちっちゃなケンと一緒にお昼寝って。もう僕は君に愛想が尽きたよ。」
窓際に椅子を移動させて兵士が来ないか見張っていたキニーは
お菓子を食べていたと思っていた友人が振り返ったら寝ていたことにげんなりした。
ほんの少し会話を途切れさせただけなのに。
結局面倒な見張りは自分だ。
母親にバレたら怒られるリスクを背負ったのも自分。
ケンは可愛いし協力するのはいいが、ブラゼルの気楽さが憎い。
ブラゼルはやっぱり西武ライオンズの外国人選手だ。
こちらは内野手である。
「…あ。あれ。」
道の端っこが騒がしくなって真っ黒な人が色とりどりの美形を連れて歩いてくる。
明らかに、自分の家に。きっとパン屋の主人だ。
迂闊に顔を見せるんじゃなかった。
あんなに大勢で来られるとは思わなかった。メチャクチャ怖い。
「ケン、起きて!」
「ふに…。」
「お迎えだよ!陛下だよ!フォンクライスト卿とかも」
「おじいちゃん…?」
「おじいちゃん?誰のこと?ああもういいや、よいしょ。」
まだ寝たりないケンを無理矢理抱っこしてキニーは部屋を出た。
階段に差し掛かったところでドアが叩かれる。
母親と陛下の会話を一刻も早く止められるように階段を降りる。
「陛下ー!」
「あぁ、あちらがお子さんで…あ!!」
真っ黒な瞳が見開かれて視線がお腹の所で抱えられているケンに注がれた。
「まぁ!アンタそのお方は!」
「裏路地で迷ってたんだよ。ケン、ケン、起きて。」
「んー?」
揺すられた彼は可愛らしく目を擦り始めた。
持ち上げていた足を地に着けてやる。
「ケン。」
すぐにグウェンダルが彼に駆け寄り腰を落とす。
覚醒に向かって目を擦り続けている彼の肩や背中を撫ぜ
怪我がないことを確認してから抱き締める。
「心配したぞ。」
「…おじちゃん。」

今日は本当にいいことばかり。

ケンはぎゅっとグウェンダルの首に抱きついた。
抱き締められる温もりはいつだってふわふわで気持ちいい。
穴に落ちて、暗い隠し通路を進んで、出た先で友達を作って
街を隠れながら走り抜けて。

お父さんが迎えに来る。

夢でしか起こらない。
きっとこれは夢の続き。

「お父さん。」
「…俺は。」
「本当にどっかが似てらっしゃるんでしょうねぇ。」
「僕等は兄で、ギュンターが祖父。アニシナはケンの母親っぽいと言っていたな。」
「うんそう、仕事に生きる女ーって感じ。」
苦虫より彼にとっては辛い、クマハチを噛み潰したような顔をグウェンダルはしてみせたが、しっかりと自分を握り締める小さな手のパワーに負けて彼を抱き上げた。
シナモンの匂いが小さくて可愛い彼によく合っている。
ふ、と下を見ると背の高い自分をキニーが見上げていた。
母親に後で叱られないように言葉を尽くしていかねばならない。
「迷惑をかけたな。」
「保護しといてくれてほんとありがと、助かったよ。」
「あとで褒美を遣わそう、城に請求しておけ。」
「請求はコチラの書類によろしくお願い致します。」
ギュンターが懐から取り出した紙を見て、彼は首を横に振った。
よい子供だ。グウェンダルは大きな手を彼の頭に乗せた。
強面の彼の柔らかな微笑みに、子供は一瞬止まってしまったが
重みがなくなると慌てて言葉を紡いだ。

「あ、あの…ケンって本当に猊下と同じ名前なんですか?陛下の弟じゃないって言うから、猊下のだと思ったんだけど同じ名前なのはやっぱり変だし。」

ぐっと、全員が詰まった。
大賢者が幼児化していることは城の者以外知らない機密だ。
彼が大賢者とムラタケンを別物だと思っているならそのまま通したい。
「コイツは…。」

「親分の隠し子ですよー。」

ヨザックの放った言葉はグウェンダルに大きな衝撃を与えた。
ケンが寝惚けて自分を父と呼んだ状況を利用するのがベストなのは確か。
だが、結婚もしていない身で子供が居るなどという無責任な男に思われるのが心外だ。
「そ、そうそう、ほら、グウェンって限りなく髪も黒に近いっしょ?それでこの子はもっと黒くなっちゃって。」
「折角黒なのですから陛下か猊下のお名前をと、そうでしょうグウェンダル!」
「ほら、俺の名前ってただ7月って意味じゃん!?ケンは地球の言葉で健やかって意味だからソッチに、な!」
魔王と王佐がヨザックの嘘で畳みかけようと言葉を重ねてきた。
口元をひくつかせたグウェンダルにヴォルフラムが強張った笑顔を向ける。
「ああああ兄上!無事に見つかって良かったですね!」
もう逃げられない。

「そ、その通りだ…ケンは私の…このことは、他言無用に願う。」





「フォンヴォルテール卿ー。」
書類を小脇に抱えて入ってきたのは、双黒の大賢者だ。
癖っ毛がソファーに腰を降ろした瞬間、ぴょんと跳ねる。
「ここでやっていい?終わったら手伝うからさ。」
白い歯を見せて年相応に笑う彼はグウェンダルの望み通り
素直で可愛いケンの要素を少しだけ引き継いだようだ。
以前は眞王廟で執務をしていたのに元に戻ってからはフォンヴォルテール卿の執務室で政務に励んでいる。
相変わらずヨザックとはいい仲らしいが、腹黒い厭味を自分に炸裂させることはなくなった。
「…。」
視線を感じる。

大賢者が素直で可愛くなれば癒されていいと思っていたのに
グウェンダルが彼を可愛がりすぎたあまり、効果はそれだけではなくなってしまった。

「…俺はお前の父親ではない。」
「え?なんで分かったの?なんかさーその座って黙々と仕事してる感じが似てるなって今思ってたんだよねー。」
「…。」

グウェンダルに隠し子が居るという噂は、今も街に蔓延っている。



2008.03.08

はひ…思ったより出来上がりに時間がかかってしまいました。
行動が分かれてしまうと書くのが物凄く難しいんですね…(汗)
時間軸はもう考えずに視点だけ切り替えて書いてしまった///
ええと、以前拍手からコメント頂いた「素直で可愛い大賢者」について
考えるグウェンダルと、ある方の日記で提案して頂いた
ケンが有利達に気付かれず、城下に出てしまうという話を合体させてみました。
今更ですがケンを省き気味にして探す方に力を入れれば良かったと思います///
ああん、別視点からもう一回か!?
眞王とウルリーケのシーンも入れたかったけどどこに入れたらいいか分からなかった///