言葉
足音を響かせずに、石の廊下を駆け抜ける。
洗濯の水音がいつもより騒がしいのはこの暑さのせいだろう。
涼やかな装いの巫女の、水で涼をとってはしゃぐ声で
眞王廟も涼やかになる。
俺は途中でグラスを拝借し、勝手に綻ぶ口元を自らの意志で引き上げた。
「げーいーかー。」
逸る気持ちを抑えてノックをするといつもは声だけで許可される入室が
猊下の手によって行われた。
猊下が扉を開いて迎え入れて下さる。今日はいい日だ。
「幼稚園児のお誘いか。」
「ようちえんじー?」
「小さな子供みたいだったってことだよ。」
目線より少し下にある猊下のキレイな瞳は優しく細められていた。
開かれた窓から風が流れ込んでおり、部屋にはそう熱は篭っていない。
それより俺がこの部屋を涼しいと思ったのは猊下の装いのせいだ。
「猊下、半袖になさったんですね。」
「流石に暑くてさ。」
ただいつもの黒い詰襟から白いシャツに変わっただけだが
俺にはそれがやたらに眩しく、気持ちも爽やかになった。
可愛い、とは言葉に出さずにニッと笑ってぽたぽたと水滴を落としている袋を掲げる。
「氷を買って来たんです。冷たいお水は如何ですか?」
「お、いいねぇ。」
猊下は高い絨毯に水を落とすなとお怒りにはならない。
俺の言葉にパッとお顔を明るくされていそいそとソファーに腰掛け
俺が氷を割ってグラスに入れるのを覗き込まれた。
水も先ほど井戸で汲んだばかりなのでまだ冷たい。
グラスのひんやりとした心地も猊下に喜んで頂きたい。
「暑いときにはこれですよねー。」
「だねー。わ。」
「気持ちいいでしょう?」
氷に触った手で、猊下の首に触れる。
涼しそうに見えた猊下の首は思ったより熱い。
襟足の下に指を潜らせると僅かに汗ばんでいた。
猊下はくすぐったそうに首を竦め俺の手は自然と離れる。
「黒って熱集めるからさー外出ると頭が熱くなるんだよ。」
「部屋に篭ってらしたんじゃないんですか?」
「洗濯手伝ってた。冷たくて気持ち良さそうだったからさ。」
掌を漆黒の髪に乗せ、宿った熱を確認している。
俺もその熱を感じたいなと思ったが、行動には起こさなかった。
「んあー…ウマい。」
「おかわりをどうぞー。」
「ちょっと待って、ん、おねらいします。」
飲み干して置かれたグラスに俺が二杯目を注ぐ前に
猊下はグラスを持ち直してかち割った氷の大き目の一欠けらを口に含んだ。
頬の片方に氷を寄せ、コロコロと遊ばせてからガリッと歯で砕く。
見ているコッチも口の中が冷たくなってきそうだ。
「喜んで頂けたみたいで、グリ江嬉しいわん。」
「渋谷も喜んでるね、きっと。」
ガリガリと氷を噛み砕きながら猊下が楽しげにそう言う。
陛下には氷をお持ちしていないのだが、猊下は当然陛下にも
この冷たさが届けられたとお思いのようだ。
下に居た巫女達にはお裾分けをしたが、それも猊下のついでであって
眞王廟にたまたま居なければ俺は巫女に氷を分け与えようとは思わなかっただろう。
俺は自分の邪まさを軽く反省し、陛下の件については曖昧に笑って誤魔化した。
俺は猊下に喜んで頂ければ、それでいい。
窓からは風と共に鬱陶しい陽射しが差し込んで、絨毯の色を薄くしている。
外を走るのは暑かった。
眞王廟に近い場所に氷売りが来るのを見計らって飛び出し
買ったあとはとにかく溶けないようにと猊下の元へ急ぐ。
速く走れば走るほど暑くなるわけだが、猊下のことを思えば
身体が熱を上げるのも楽しく思えた。
この部屋で風に当たった俺は今更、汗をかいたままの状態で
参上したのは失礼だっただろうか、と蒸れた髪に手を差し込んで見上げた。
じわーっと、自分から湯気が上がっているような感じ。
カラン。
そわそわと己の格好を気にしている所に、氷がずれる音がして
俺はハッと猊下に意識を戻した。
グラスで冷やした自分の手を、先ほど俺がしたように首の後ろに当てている。
何はともあれ、猊下は俺のお届けした涼を喜んで下さったようだし
俺の格好も気にしていらっしゃらない。
よし、と一人で頷いていると猊下がふと顔を上げた。
「ヨザは食べた?」
「いいえ。とにかく猊下にと思ってたんで。」
「なんてこった。ゴメン気付かなくて。しばしお待ちをー。」
「へ?」
「ん……別にグラス変えなくていいよね。」
カラン。
猊下が一気に水を飲み干し、残った氷だけのグラスに水を注ぐ。
一応口をつけた部分は拭っていたが、突き出されたグラスに
俺は目を見開いた。
「あー、一気にいくと頭にくるねコリャ。」
「大丈夫っすか?」
「病気じゃないんだから平気だよ。ほら、ヨザ溶けないうちに。」
猊下の手の熱なのか、部屋との温度差か
グラスには薄く水滴が浮かんだ。
俺は手を伸ばし、冷えた猊下の指先に触れ、グラスを受け取る。
胸は苦しくならない。
内側から熱く滾ってはこない。
触れたい欲求より
貴方の涼を奪わないように距離を取り
微笑みには微笑みで返す。
涼しくて、爽やかで、心の風通しもよい。
洗濯の水音の騒がしさ。
鬱陶しい虫の声。
氷のずれる音。
猊下ののんびりと暑がる声。
この夏の俺がこの先、熱を上げても上げなくても
貴方と共にあれば、この想いは確かに恋な気がした。
2008.07.13
音は言葉なんだと信じている。
音の役者になりたくてなれなかった私の言葉で
ヨザと猊下に夏の訪れを。夏っていうかまだ初夏かなぁ。
ちなみに私は夏が大の苦手です!!!!!!!!