繋ぐ
教科書なんてもんは本当に役に立たない。
万の言葉を用いても表しきれない素晴らしさ、と謳われた双黒の大賢者は
俺のような一介の兵士には手を伸ばすことも叶わないお人だと思っていた。
が、実際にはどうだろう。
猊下は今日も供など連れずに一人で血盟城にいらっしゃったうえ
壁の修繕に使う粘土をくれと言っている。
生憎、俺にはそれを巫女達を気遣う心優しき大賢者サマと勘違い出来る優秀な脳みそがない。
だから俺がこの人面白そうだなぁ、と思うのはムラタケン様に向けてであって
双黒の大賢者サマへではない。
「どれぐらい要りますー?」
「バケツ二杯分ぐらい?」
「そんなにですかぁ?」
「ゴメン、適当に言った。」
悪びれることなくそう言って、猊下は落ちてきた袖を手首で肘まで上げる。
幅をとって折るのではなくただ乱暴に上げられただけの袖は
上げた瞬間から既に落ち始めている。
服の皺を気になさらないならいいいか、と俺は猊下の腕を取って
袖を肘の上まできっちり上げてやった。
血管だって見えるし、女性にはない筋肉の線がある。
絵の中の大賢者は女性のようだったが、この猊下は色の白さを除けば完全に男だ。
「ありがとう。」
「いーえ。そんな泥だらけの手じゃね。」
「持って帰ったらまた汚れるから今洗ってもさ。」
シャベルで粘土の元になる土を掘ってバケツへ入れる。
猊下がせずとも俺がするのに、着いてすぐに猊下は自らシャベルを手に取った。
用意されていた最高級の靴は眞王廟でお留守番しているようだ。
先日、私服で流されて来た際に履いていた“すにーかー”は猊下にとって汚れてもいい物らしい。
「ちょっと、やっぱ、もう1個いる。」
「水入れるんしょ?十分じゃないすか?」
「バランス悪くて歩きにくいんだよね。」
一応猊下の護衛も仕事に入っている俺の前で一人で持って帰る宣言だ。
彼に悪気がなく、本気でそう思っているのが厄介。
バケツを手に戻って来た猊下はさっさと土を入れて両手にそれをぶら下げてみた。
バケツ一杯に土を入れてあるが、男にとってそんな物はちょっと力を入れれば持ち上がる重さだ。
非脳筋族の猊下の腕から余裕は感じられなかったが、持てない重さではない。
「俺行きますけど?」
「いいよいいよ。君は明日経つ準備があるんだし。」
「あ、知ってたんスか。」
「当然だろー?僕を誰だと思ってんだよ。」
眞王廟の雑用ばかりに身を投じていても国の動きだけはしっかり把握されている。
器用な大賢者サマはデキる男。
何事もひけらかさずにサラっとこなす男。
この少年がいつそんなことをしているのか、その秘密は、と一日護衛として付き添ってみたら何のこたない。
毎日決まった時間に王佐殿から報告書が届けられているだけだった。
午前中に眞王廟の雑用などのやるべき事を済ませ、午後から朝の会議で上がった書類に目を通し一人落ち着ける場所で執務に励む。
一日の全てが猊下のご予定通り。
時間が乱れるほど無理な量の仕事は引き受けない。
地味で何の面白みも新鮮さもない毎日。
俺だったら耐えられないが猊下にはこのリズムが一番過ごしやすく楽しいらしい。
彼の顔を見ていると本当にその生活が素晴らしく楽しそうで、一度試してみたくなるから不思議だ。
「やっぱりお持ちしますよ。閣下に怒られちまう。」
「じゃあ城を出るまで頼んだ。はぁー…フォンクライスト卿はいい人だけど僕等が絡むと煩いよね。」
俺の言葉に猊下はあっさりとバケツを差し出された。
陛下はよく遠慮なさって兵士やメイドを困らせているが、猊下はやらせてやる優しさを分かっていらっしゃる。
上手に世渡り出来る可愛くない16歳。
こんなに人間臭い人があの教科書の大賢者だなんて、信じられない。
でも俺が明日会いたいのは間違いなくこの大賢者だ。
明日も明後日もその次も、このムラタケン様と会えたときは
世界は平凡でも穏やかで幸せなんだろう。
それと同時に燃えるような恋をしたとき
この人がどう変わるのか無性に気になって、今からでも遅くない
眞王廟までの道のりをご一緒したくなった。
2007.02.15
図書館で書きました。
淡々とした作業や毎日に退屈せず楽しんで過ごせる。
そんな心に余裕のあるポジティブ猊下が書きたかったのですが
ただのつまんない子になってしまいました(苦笑)