*二人*

「ヨザお兄ちゃんとご飯食べる。」
「ヨザお兄ちゃんとお散歩に行く。」
「ヨザお兄ちゃんとお風呂入る。」

夕方から突然到来した“ヨザお兄ちゃんブーム”にヨザック本人は驚きを隠し切れなかった。
小さな大賢者は先日までとは一変、ヨザックにべったりとくっつき
離れそうになると背中を追いかけてついて行くようになったのだ。
彼の言葉のどこかしらが小さな大賢者の大切にしている部分にヒットしたらしい。
お風呂上りの湿った髪を跳ねさせた彼はグウェンダルから貰ったあみぐるみと共に
部下のヨザックまで寝台に引き込んでご満悦だ。
ヨザックは急に舞い込みはじめた幸福に恐縮して自分に擦り寄るケンに尋ねた。
「俺が一緒じゃせっかくのおっきな寝台が狭くなっちまいますよ？」
「狭くないよ。」
筋肉が珍しいのか、彼はヨザックの膝に乗り上げて胸筋を触っている。
ぴくぴくとそれを動かしてみせると、僅かに目を見張ったあと
きゃらきゃらと可愛く笑い始めた。
あまりの可愛らしさに顔が緩む。
緊張が解けたヨザックはこの状況を満喫することにした。
再び胸筋を動かしてやるとケンはやっぱり笑った。
「なんでぴくぴく出来るの？」
「鍛えたからですよー。毎日重い物を持ってぐおーって。」
「ぐおーって？」
「あと、こうして手を合わせて力を入れるといいんですよ。」
「こう？」
「それを毎日続けると、胸がおっきくなるんです。」
「んーっ。」
自分の真似をしているケンの脇腹をくすぐり膝から落とす。
そのまま腕の中に閉じ込めて寝台を転がり回ると小さな大賢者は
きゃっきゃっと喜んでヨザックの腕に抱きついた。
細い脚がシーツの波を元気に叩いている。
「はは、ケンはホントはやんちゃなんですね。」
「あ…ごめんなさい…。」
「あぁ、怒ったんじゃないんすよ。男は元気が一番なんですから。」
「…うん。」
いい子のケンは人の言葉には過剰ともとれる反応を示し自分を正す。
それは心を開いた相手に対しても変わらない。
はしゃいでいた彼はここは人のお家だった、と我に返りヨザックの腕を離すと
居心地悪そうに縮こまった。
あえて言葉にせずに額を付き合わせてなるべく優しく笑ってみせると、
ケンは一度青い目を見つめてから何かを迷うように反らした。
「どうしました？何か聞きたいことでも？」
「……お母さん、いつお迎えに来るの？」
彼の瞳が不安げに揺れている。こんなに長い間親元を離れたのは初めてなのだろう。
言葉にするともう迎えに来ないのではないかという不安が大きくなってきたのか
ケンは目の前の温もりに縋り、抱き締めて欲しがった。
ヨザックはそれに応えて優しく背中を摩り大丈夫だと、と繰り返す。
「僕、いい子にしてる。」
「そうですね、ケンはとってもいい子で待ってますもんね。」
では何故、という言葉をケンは続けなかった。
ヨザックにそれを言っても仕方のないことが分かっているのだろう。
健気すぎる４歳児の髪を撫でて抱き締めて、与えられる限り温もりを分け与えるが
一番欲しているものをヨザックは与えてやることが出来ない。
アニシナの話ではあと二、三日と聞いたがぬか喜びさせたあとに
完成が延びるとも限らない。
「明日お母さんにお手紙を書きましょうか。ね。」
「…うん。」
「今日はもう寝ましょう。」
「…うん。」
ヨザックの腕の中にケンは出来るだけ潜り込んだ。
母親のように柔らかくはないが、目を瞑れば同じように暖かい。
無意識に母親の温もりとヨザックの温もりを摩り替えて、彼は涙を堪えた。
４歳とは言え、彼には自分が男の子だという自覚とプライドがある。
甘えはしても泣くことだけはしたくなかった。
「いい子で待ってる。」
「…。」
言い聞かせるような呟きが既に大人のヨザックの心をぎゅっと縮ませた。

「なんだなんだーケン、もう終わりかー？」
翌朝、強くなる為に走ると決意したケンは加減の足りない魔王の走りに
すぐ体力が尽きてしまった。

大人と子供とは言え、息一つ乱していない有利の爽やかな笑顔は
身体能力にコンプレックスを持つ小さな大賢者を大いに凹ませた。
なんだかもう何もかも嫌になって投げ出したくなる気分だ。
いい子のケンは悔しさのあまり泣いて暴れるという幼児にありがちなスキルを装備してはいない。
もやもやとしてやるせない気持ちが頑張り続けている心にズッシリ圧し掛かる。
あからさまに凹んでくれればフォローもしやすいのだが
性質の悪いことに大賢者は顔に出さずに凹むタイプだった。
ヨザックがやんわりと魔王を誤魔化しケンを抱き上げ
非幼児向けの野球部の特訓から離脱させた。
離脱させて貰った、というのも大いにケンを凹ませていたが
ヨザックはケンの身体を優先したのだ。
彼は紛う事なき頭脳派だ。
身体能力が破滅的に悪いとは言わないが性格的にもデスクワークが向いている。
小さくて可愛いモノを愛している上司にお手伝いをとお願いすると
イチもニもなくそれは了承された。
その働きをグウェンダルとギュンターとヨザックの三人がかりで褒め称えて
ようやくケンは男としての自信を取り戻してくれた。

バイバイと手を振って執務室をあとにするとケンは母親に手紙を書くと
自室でグウェンダルから貰ったクレヨンを取り出した。
二度と誤解のないようにヨザックが買い足したオレンジや紫で
血盟城の日常が描き出されていく。
すっかり機嫌が直ったケンはぷらぷらと脚を揺らして知らない歌を歌っている。
立ち直りの早い子供にヨザックは笑って無意味に頭を撫で回した。
絵を描いている途中で何故頭を撫で回されたのか。
顔を上げて不思議そうに小首を傾げるケンの表情も
ヨザックにはただただ愛しいばかりだ。
「ケンはもう、食べちゃいたいぐらい可愛いですねぇ。」
「僕、食べれないよ。」
もう少し大きくなればそういう言葉で可愛さを表すというのも分かるのだが
４歳にはまだ食べちゃいたいぐらい可愛いものというのは分からない。
赤ちゃんやイヌやネコを可愛いとは思うが
それにしたって単純に可愛いという感情しか持ち合わせていないのだ。
言葉が理解出来ずにきょとんとして言い返す彼が面白くて
ヨザックは真ん丸なほっぺたをつついた。
柔らかくて暖かくて可愛い。もう何をしても可愛い。
落ち込んでもはしゃいでも、一挙一動が愛しくてたまらない。
今ならコンラッドと親バカ対決が出来ると骨抜きの心で思った。
ようやく懐かれたという点が大きい。
寿司太郎も食べたい気持ちを我慢すればするほど美味いのだ。
「えー、甘くて美味しそうですよぉ。」
「美味しくないもん。」
「そうですかぁ？」

ぱく。

それはケンにとってはあまりにも衝撃的だった。
目の前のお兄ちゃんが自分を食べちゃいたい、美味しそうだと言った上で
自分の人差し指をぱくんと口に含んでしまった。
甘噛み程度の弱い力ではあるが、ヨザックの歯が確かに
ケンの人差し指を噛んでいる。

食べられる。

一瞬でそう悟ったケンは反射的に噛まれていない方の手で
ヨザックの顔を張り倒した。
その衝撃で噛まれていた指が開放されると椅子から飛び降り
一目散にドアへと走る。
なんてことだろう。ようやく仲良くなったお兄ちゃんは自分を食べるつもりらしい。
頭の中では狼に食べられる赤頭巾ちゃんと同じく狼に食べられる子ヤギと
同じく狼に狙われている子豚と…とにかく狼に食べられる童話が頭の中を駆け巡っていた。
誰かがお兄ちゃんを獣と言っていたのはこのことだったのか。
「いてて…っひ、酷いじゃないですかー。」
不意打ちを喰らって思い切り張り倒され顔を押さえていたヨザックが立ち上がった。
逃げないと食べられてしまう。
必死で重いドアを開けて廊下に飛び出す。
迷っている暇はない。右でも左でもいいから逃げなくては。
「ケンー待って下さいよー今のは冗談ですよー。」
そう言われた所で、絵本の狼はいつも変装や声色を使って騙してくるものなのだ。
絶対に捕まってはいけない。捕まったら食べられる。
怖くて必死で走るが、元より走るのが苦手な大賢者は
朝にも散々有利と走って体力はもうゼロに等しいのだ。
息が上がって喉と胸が痛い。
追いかけてくるヨザックを確認しようと振り向いた瞬間
ケンの脚はもつれてつんのめった。

ごちっ。

鈍い音がヨザックの耳にも確かに届いた。
手を前につくことが出来なかった彼は石造りの硬い廊下に額を強かに打ちつけたのだ。
あまりのことに声も出ない。そのうち、頭が痛みを訴え始めた。
痛みを認識していくと共に、ケンはもう耐えられなくなった。

目が覚めたら周りは知らない人だらけで日本語も使えないし
母親はいつまで経っても迎えに来ないし
怖い夢の声がちょくちょく聞こえてくるし
強くなろうとしたら走ることすらままならなかったし
仲良くしていたお兄ちゃんに食べたいと追いかけられるし
息は苦しいし、転んで痛いし

ぷちん、と糸が切れた。

「ふぇ…え…うわああああああああああああああああああああああああ！！」

血盟城中に響き渡ってなお余る大きな声で、ケンはついに泣き出した。
真っ青になったヨザックが起こして怪我を確認しようとするも
寝たまま手足をばたつかせてケンはそれを拒絶する。
「ケン、頭、痛かったでしょ？ね、頭だけ見せて下さい、ね！お願いですから！」
「やぁーーーーーだーーーーーーーーーーーーーーー！！！」
「うわっねぇケンちゃん！ねーってば！食べませんってば！」
「うわあああああああああああああああああああああああ！！」
無理に抱き起こそうとすると彼は泣き声を荒げ、暴れて決して触らせまいとする。
愛しい双黒の泣き声を一番に聞きつけたギュンターが物凄い形相で
廊下の向こうから走ってきた。
職を失う可能性にもヨザックは顔を引き攣らせた。
「どうなさったのですかぁぁぁ！！」
「おじいちゃぁーーーーーん！！」
駆けつけたギュンターがケンを抱き起こすと彼はあっさりギュンターに従い
首に抱きついて助けを請うた。
「あぁお可哀相に、転ばれたのですね。ギュンターが今すぐ治して差し上げますよ。」
打ち付けた部分に手を当て、魔術で痛みを取り払う。
完全に痛みを取り払ってもケンはまだ泣き続けている。
今まで我慢していたものが全て溢れ出して止まらなくなっているのだ。
「そうでちゅかー転んじゃったんでちゅかー痛かったでちゅねー。」
ケンは続いて、グェンダルの腕に渡った。身体を揺らし背を撫ぜ
赤ちゃん言葉であやされている。
泣いている子供は気にする余裕がなかったようだが
共に駆けつけた兵士はドン引きだ。
「ケンー男の子だろー泣くなよー。」
「うえ…っう…うあああああーやぁーだぁー。」
魔王もケンを抱っこして数分宥めたがヨザックに回そうとした途端に
ケンはゼロに戻ってまた声を荒げた。
誰が見てもヨザックを嫌がって泣き出したように見える。
同じ過ちを繰り返すお庭番にヴォルフラムは青筋を立てて怒り出した。
「ヨザック！貴様ケンに何をしたんだ！！」
「なんもしてませんよー！」
「うわあああああー。」
「いやでも…明らかにヨザックを嫌がってるんですけど…。」
「お、お兄ちゃんが、ケンのこと、か、かん、噛んだぁー。」
何もしていないと嘘を吐く狼にケンはしゃくりあげながら一生懸命言葉を紡いだ。
噛んだ、という言葉にその場の人間が頭に？マークを浮かべる。
「ケン、ケンを、うぇ…っ、食べ、食べるって、おいしそ…って…ふぇ。」
「ヨザお前まさか…この状態の猊下に…？」
コンラッドの一言に一同が白くなり、ケンの泣く声だけが場を支配した。
そして冷たい視線がヨザックに注がれる。
ヴォルフラムは魔王の腕からケンを奪い、一歩下がった。
「違いますよ！そういう意味じゃなくて食べちゃいたいぐらい可愛いですねーって！！」
「ケンが美味しそうって言ったーうわああああああ。」
「ヨザはケンが美味しそうだから食べたいと言い、噛んだわけですね。」
「貴方という人は！！私は貴方をそんな風に育てた覚えはありませんよ！！」
「そこへなおれヨザック！！！俺が斬り捨ててくれる！！！」
「お願いします兄上！こんな不貞な輩、二度とケンに触れさせてはなりません！！」
「隊長も閣下も親分も誤解しないで下さいよぉ！ちょっと悪戯しただけなんですって！」
「子供に何のイタズラをしたんだ？」
「そのイタズラじゃないですってば！噛んだっつっても指をちょっと可愛らしく…」
「うわああああああああああああああああーお母さぁーーーん。」

あやしてもあやしてもケンは泣き続けた。
母親と父親を呼び何を言っても嫌だと泣いて皆を途方に暮れさせた。
咳き込み、むせながらも泣き続けている。
あまりに哀れな姿にギュンターも横でむせび泣いた。
魔王の部屋にケン用の本やお菓子が散乱してあやし疲れたヴォルフラムもケンの横で眠っている。
使用人達はすれ違う度にヨザックを睨みつけていく。
もう誤解だ、という言葉すら出てこない。
有利だけは冤罪を認め、消沈するヨザックに苦笑いで話し掛けてきてくれた。

「ストレス溜まってたんだなぁ…分かっちゃいたけど。」
「昨日もいつ迎えにくるの？って聞かれました。俺が勘違いさせて転ばせちまったせいで帰りたさは最高潮でしょうね。」
「…ヨザックこれ、アニシナさんから。」
「こりゃあ…。」
「そ、解毒剤。さっき貰ったんだ。思ったより早かったよな。」

琥珀色の飴玉がヨザックの手の上でコロリと転がる。
光を反射してキラキラと煌く可愛いそれが
アニシナ作というのは信じ難いものがあったが
毒女でも子供に対する優しさは捨てていないのだろう。

「最後はヨザックに任せるよ。ちゃんと仲直りして終わらせたいだろ？」
「坊ちゃん。」
「お前達二人はどんな状況でも大人しくしてらんねーのな。」

遠くの空を見て溜息を吐くように言っても顔が笑っている。
村田との関係を微笑ましく思われていることが伝わって
ヨザックは柄にもなく照れ「あー…。」と言葉にならない声で困った。
それを見て更に笑った有利が泣きつかれてうとうととまどろみ始めたケンを
抱き上げてヨザックに引き渡す。
意識が半分夢の中になっているケンは無意識にヨザックに擦り寄った。
有利が目の端に溜まった涙を少し拭って、小さな大賢者に手を振る。
魔王にしっかりと頭を下げて、魔王の部屋をあとにした。

背中をゆっくりと叩きながら、ヨザックは村田の部屋へと歩き出す。
真っ赤になった鼻と腫れた目とあどけない寝顔が夕暮れに染まる。

「俺の印象って最初から最後まで悪すぎじゃないですか。」

元に戻ったとき嫌われていたらどうしましょう。
最悪の想像のハズだが、ヨザックはクスクスと笑った。
ケンが半分だけ目を開けてヨザックを確認する。
瞳に狼の姿を映し込んでも思考能力が眠気で停止している彼は
逃げ出そうとはせずぼーっとヨザックを見つめ返して
今どういう状況なのか理解出来ずにいた。

「ケン、あーんして下さい。」
「…ん。」
「飴ちゃんです、これで許して頂けますか？」
「うん…。」

言われるまま開けられた口に解毒剤を放り込む。
コロコロと口の中でそれを転がしてケンは甘さを堪能し
またうとうととまどろみ始める。
眠っている間に戻るように睡眠薬も入っているのかもしれない。

これでお別れだ。
ここでお別れだ。

むしろ、よいタイミングだったのかもしれない。
ケンの限界という意味でも、情が移りすぎるという意味でも。

これ以上幼いケンを慈しんでいたら、村田と恋仲には戻れない気がする。

それはもう、親友の陛下バカと同じ道を辿ってしまうことだろう。
保護者は保護者で楽しいが、ヨザックはやはり村田の愛が欲しい。

「ケンは強くていい子でした。俺のことは、ちょっと苦手だったみたいですけど。」

眠りにつこうとしているケンに、自分の思いを断ち切るように語りかける。
「頂いた絵、大事にしますね。お散歩もお風呂も楽しかったです。」
眠りたいのに話し掛けてくるヨザックに、ケンはもう一度目を開けた。
自分を映している青い目が優しく細められて、唇が近付いてきた。
瞼を閉じると柔らかく何かが触れて離れる。

「目が覚めたら、お家ですよ。」

とん、とん。
肩を叩いて眠りを促すリズムに、人の温もり。
目が覚めたらお家。
その言葉だけを掴んだまま、ケンは夢の世界に旅立った。

「…。」

朝の光が、窓から差し込んでいる。
村田は身体を起こして辺りを見回した。血盟城の部屋だ。
何故こんなところに？と村田はそのまま考える。
「猊下。」
「…ヨザ、僕血盟城に居たっけ？」
「…おかえりなさい。」
「は？」
「いいんです。おかえりなさいなんです。」
チュと、瞼にキスをするヨザックに村田は首を傾げた。
彼の手がやけに優しく自分の頭を撫でてくる。
まるで小さい子供にするような手つきに違和感を覚えた。
「なに泣きそうな顔してんの？」
「猊下……キスしてもいいですか？」

「ん。」

迷うことなく、村田が重ねてきた唇にヨザックは本気で涙を零して
驚いた村田に子供のようにあやされた。

END

二人　Ⅷ

2007.11.25

二人 Ⅷ

2007.11.25

二人　Ⅷ