約束するよ
執務室を出た猊下は坊ちゃんの叫びに目を細めた。
彼をからかっていたときのふざけた笑みとは違う、まるで親が子を見るような
慈しみの篭った瞳で閉ざした扉の向こうを見ている。
残響音までしっかりと聞き取ってから踵を返し、廊下を歩き出した猊下に
斜め後ろから問う。
「良かったんですか?」
「何が?」
「坊ちゃんの仕事、机の上に山積みでしたけど。」
「サインの捏造は出来ないよ。それに僕は渋谷のコンプレックスを刺激してしまうみたいでね。手伝ったのに落ち込まれたら微妙じゃないか。」
あぁ、それで猊下は愛する彼に意地悪をしたのか。
よしよしと頭を撫でたら溜息を吐いて振り払われる。
怒ったりすればむしろ可愛いのに普通に振り払う所が猊下は冷めてて可愛くない。
「やめてくれ。渋谷に構って欲しいわけじゃないんだから。」
「そうですかぁ?突っ込まれて嬉しそうにしてた癖に。」
「僕に突っ込むのは君だけだろ。」
「やだこんな明るいうちにそんな話!グリ江恥ずかしい!」
でも猊下の一番はいつでも陛下ですよね。
と、嫉妬からうっかり言いそうになったがそれを言うと猊下は確かな答えを
俺に言うのに少なからず罪悪感を抱いてしまうので寸でのところで留める。
僕は渋谷の為の存在だ。
と言い放つ猊下の心には一点の曇りもないが、超有能諜報員の俺はその後に
猊下自身が無意識に感じている罪悪感をほんの僅か感じ取ることが出来る。
拗ねているのは俺も同じか。愛しい人がつれなければそうなるのが当たり前。
大賢者様もお庭番も肩書きなければただの人。
稀少な双黒に少しの親近感を抱いていたら猊下は右に曲がる所を左に曲がった。
方向的には親分、フォンヴォルテール卿の部屋がある。
「閣下のところへ?」
「どこを手伝っても国にとっては同じってね。」
「えー俺のドレス見に行きましょうよー。」
「ダメー仲人への挨拶が先ー。」
猊下のかわし方は全てを潰さずに残しつつも流れは変えさせないんですよね。
もう一度言ってもかわされそうだな。
政への適正が普段の会話からこんなにも窺えてしまっては
坊ちゃんが拗ねるのも無理はないか。
猊下が言ったハズのデートを諦め、せめて閣下の部屋まではと切り口を変えた。
「猊下、チキュウでは平手打ちは求婚ではないんですよね?」
「あぁ、ただ殴ったってだけだね。好きな相手には間違ってもしない。」
「ではどうのように求婚を?」
「君たち一般兵と同じ。結婚して下さいって言う…ああでも指輪は渡すね。」
「指輪?」
「婚約指輪を買って求婚するとき相手に渡すんだ。受け取って貰えたら婚約が成立する。日本では給料の三ヶ月分の指輪をって言うね。」
「給料の三ヶ月分…。」
「君にはキツいんじゃない?」
「いや!猊下の為なら俺は酒と博打を断ちます!」
「へぇ。期待せずに待っておこうかな。」
「求婚したら受けて下さいますか?」
「それ答えた時点で婚約成立しない?」
俺の矛盾した問いかけにクスクスと笑ってなんなら今いいよ?なんて
軽く目を瞑って顎をあげる猊下はやれるものならやってみろ、という感じ。
頬に手を添えて匂わせてみても微動だにしない。
平手は出来ないが折角なのでキスをしよう。
重ねるだけで離れていく俺の襟元を猊下が掴んだ。
眼鏡が邪魔だなという距離で、陛下に向けているのとは違う慈しむ瞳。
驚きに目を見開くと更に優しく細められて
漆黒の瞳にはもう俺しか映らないんじゃないかという勘違いをしそうになった。
「ヨザック、これだけは約束するよ。」
「約束?」
「君が本気で求婚してくれたら、僕はかわさず本気で応えてあげる。」
襟首から手を離して二人の距離を戻す間にコロリとした笑みに顔を戻せる貴方は凄い。
「指輪はシンプルなのがいいなぁ〜。」
「猊下ー俺はいつだって本気ですよー。」
「嘘だね。君は優しいからまだ僕を気遣って本気にはなってない。」
「むしろグリ江の頬を打っては下さらないの?」
「やだよ、僕もヨザックにプロポーズされたいもん。」
「…今すぐ抱かせて下さい。」
本気だね?
「僕はーお庭番のおやっつー♪三時以外もおやっつー♪」
求婚する勇気がどうにか筋トレでつかないもんか。
お姫様抱っこをした可愛い男前の猊下は、ダンベルよりも軽かった。
2007.02.05
ひらりひらり。でも相手が真剣なときは茶化さない。