metaphysical − メタフィジカル |
部屋に猊下のお姿がない。 音を立てないようにこっそり失礼して可愛らしい寝顔を拝もうと思ったのに 猊下のベッドはその形をほんのり残しているだけで中身がなかった。 手を差し込み、温もりを確かめる。 すぐではないが経ちすぎてもいない、か。 眞王廟の巫女は猊下が外出したとは言っていなかった。 何らかの理由で猊下が今日だけ早起きをしてすれ違ってしまったらしい。 愛しい人の不在は諜報活動明けの俺を僅かに萎ませた。 寝顔にキスをしてイタズラをして起こしたかったのだ。 幸せな想像が虚しき妄想に変わる。 ベッドをキレイに整え、カゴに入れられていた洗濯物を手に持って立ち上がった。 探すついでに侍女に渡そう。 まだ朝食には早いが腹が減って厨房に行ってしまわれたのかもしれない。 食べ終わる前に参上出来れば紅茶を入れて差し上げられる。 恰幅のいい女性料理人に微笑ましく思われながらパンで頬が膨らむ猊下を思い浮かべた。 これも猊下がそこにいらっしゃらなければ虚しさだけが残る妄想になるが 思いつき、希望を抱いている間は、その猊下にどんな言葉をかけようかと 足取りが軽くなる。 廊下の少し先、厨房の入り口が見えてくると中の音も聞こえてきた。 いつも通りよく通る厨房の女の声と忙しなく働く包丁の音。 そこに愛しい猊下の声が混じった。 やはりここにいらしたか。 声から察するに、愛しい猊下は気まぐれに厨房を手伝っているようだ。 何も珍しいことではない。 厨房を手伝っているのは初めてだが、彼は眞王廟では貴人とは思えない扱われ方で はっきり言ってしまえば雑用係と大賢者の掛け持ちをしている。 敬い、憧れ、畏怖の感情を抱き、ときにその美しさに黄色い声を上げる相手でも 雑用に使うのだから女は本当に恐ろしい。 猊下も陛下と同じくお人好しで暇なときはせっせと巫女への奉仕活動に励んでいる。 楽しそうなときもあるし、仕方なくのときもある。 声を聞く限り今日はきっと楽しい方だ。 ご飯を食べている猊下の妄想を打ち消し、女性に囲まれて 食器を運んだり盛り付けをしたりと忙しい猊下を思い浮かべた。 大雑把な癖に変なところで細かい猊下は、スープの具の数にこだわり始めるに違いない。 上手く盛り付けられれば勝ち誇った顔。 そうでないときは眉間に皺を寄せた難しい顔。 早く猊下にお会いしてその顔にキスがしたい。 「猊下ー。」 「ん?」 いらした。 エプロン姿で、シャツを肘まで上げた猊下が厨房の奥で俺の呼びかけに気付く。 黒い瞳の上の、わりとくっきりした眉がひょんと上がった。 驚いた顔も可愛らしいなぁと思って一歩踏み出したら 猊下はキッと瞳を眇めて放った。 「待てヨザック!それ以上入って来るな!!」 「へ?なんでですかぁ?」 「なんでもだ!そこから身を引いて、壁に背をつけろ!」 「ぇえ?」 俺は早く猊下に歩み寄ってこの腕で抱き締めたいのだ。 なのに、愛しい人は久し振りに会った恋人に笑顔どころか 坊ちゃんが危険に晒されたような険しい表情を見せている。 壁に背をつけろ、はどこかへ行け、ではなくそこに居ろ、という意味が強い。 渋々愛しい猊下が視界から消えてしまう位置についた。 「猊下ぁーどうしてですかー。どうして俺は入っちゃいけないんすかー。」 「見られてしまっては計画が台無しだからさー悪いねーもうちょっとだけ待っててくれよー。」 情けない声で愛を求めてみると、猊下からはいつものちょっとだけ年寄り臭い響きが帰ってきた。 俺より全然若いはずなのに猊下はたまに俺より年寄り臭い。 声とか仕草が、ではなく空気が。 いや、記憶だけなら4000年分か。年寄り臭くもなる。 俺に見られてはいけない猊下の計画とはなんだろうか? 厨房という場所を考慮すると、手作りのパンを俺の為に作って下さっているとか? しかし、一瞬だけ見えた猊下が手にしていたのは白い粒の塊だった。 まずあれが食物なのかが俺には判断出来ない。 新種の植物を発見したから食べられるかどうか俺で実験する気だろうか。 アニシナちゃんじゃあるまいし。猊下は面白がってそんなことはしない。 きっと俺の知らない食べ物に違いない。そして猊下はそれを俺にくださるのだ。 猊下の手料理を俺に。 妄想だけでお腹一杯、とは言わない。 俺の口の中も胃も、もう猊下の手料理を迎え入れる気だ。 いい匂いだけを嗅いで手が出せない拷問に耐えていると 猊下が包みを手にひょっこり顔を覗かせ、俺に笑った。 「いやぁーまさか君が来ちゃうなんてね。」 「それ、なんですか?」 「あとで。って言いたいけどもうバレたも同然だから言うよ。これはお弁当。ムラケンの手作り。」 片手で突き出された弁当の下に手を出すと、それが降りてくる。 底がまだ温かく出来たてホヤホヤである。 「君、今日休みなんだろ?僕も休みだしたまには一緒に出かけようじゃないか。そんでこういう恋人同士のお出掛けにはやはり手作りのお弁当。僕はそこら辺の男のトキメキは大事にする主義なんだよね。だから作ったんだ。こっそり作って驚かすのが定石だと思うんだけど、バレてしまうってのもその道の勝利さんに言わせればきっと王道に違いない。」 言っていることも、やっている事も、出掛けようという誘いも俺を喜ばせたが 弁当を俺に手渡した猊下は早くも出口に向かって歩き始めている。 猊下の頭の中の恋人同士のお出掛けはお弁当は作ってくれても、相手を置いて一人でさっさと始まってしまうものらしい。 とことん自分を崩さない猊下の後姿とその独特の調子が 妄想の猊下にはない面白さと愛らしさなのだ。 「猊下。弁当だけ渡して俺を置いていくんすか?」 「おっと。もう来るもんだと思ってたけどまだ承諾されてなかったか。じゃあ、改めて。折角の休日だ、君に任務明けの身体を一日床で休めたいという希望がなければ、一緒に出かけないかい?」 断る筈のない俺への誘い文句に逃げ道が用意されていたが、それも猊下らしい。 俺の言葉を待つ猊下はちょっとだけ機嫌のよいアヒル口。 自分の存在が猊下に確かな喜びを与えているのだと思うとこちらの口元も緩む。 「はい、猊下。」 恋人なのだから、出掛ける際は手を繋ぐのがいい。 弁当は落とさないようにしっかりと持ち、もう片方をお誘いの肯定として差し出すと 猊下はことり、と首を傾けて苦笑した。 「手?うーん、ゴメンねヨザック。僕は公共の場で手を繋いだりはしたくないんだ。」 「あぁ、すいません。弁当なんてくれるんでアンタが大賢者だって忘れちまってました。」 「いいや。僕は公共の場で人目も憚らず触れ合う男女が好きではないんだよ。なんて言うのかな、恥じらいはないのかと思ってしまうわけだ。まったく、近頃の若いもんときたら道で抱き合うわキスするわで目のやり場に困って仕方がない。あ、これはひがみじゃないぞ。決してひがみではないんだ。」 近頃の若いもんという発言に思わず噴いた。 16の猊下より若くして道で彼を不快にさせるほど触れ合う魔族は恐らくいない。 やはり猊下は何か年寄り臭い。 しかし、手を繋ぎたくない理由が大賢者ではないことが俺を嬉しくさせた。 そして、どうやら猊下は人目も憚らない男女をひがんでいるようだ。 本当は自分もそうしてみたいということだ。 「その理由なら手ぐらいいいじゃないですか。可愛い子を連れて歩くとき男はちゃんと、コレは俺のだ、って周りに認めさせて守らないといけないんすよ。」 「僕は可愛くないけど…。うん。ただ並んで歩いていたら呼び止められて祈りを捧げられたときに逢引中ですと言っても説得力がないもんね。ある程度触れ合って周りに水を差すなと釘を打つのは必要なことかもしれない。そう、これは防衛の1つであって決して…。」 「ひがんでないし、羨ましかったからでもないんすよね。」 俺の宙で待たされたままだった手に、猊下が手を重ねてぎゅっと力が込められる。 やはりひがんでいたようだ。俺の手を握る猊下の楽しそうな顔。 可愛い。お出掛けの最初から迫る男は嫌われるかもしれないが 繋いだ手を引いて猊下の額にキスをした。 「お出掛けのはじめなので、これで。」 「これって別れ際じゃないのかい?」 「もう最後までしちゃったのにですか?」 「確かに。別れ際におでこは初心者カップルのやることだ。」 納得した様子で、猊下は俺と繋いでいた手を少し持ち上げ、指を絡ませなおした。 もう最後までしちゃった二人に相応しいのは指の間に指が入る繋ぎ方らしい。 「よし、行こう。」 「はい。」 「クマハチを探そう。」 手を繋いで街に出ると、猊下は唐突にそう言った。 非常にのんびりした口調からはそれが冗談なのか本気なのか読み取れない。 どちらにせよ、頭のいい猊下にしては無謀過ぎて俺は笑った。 「絶滅危惧種をですかぁ?」 「ドラゴンも見に行こう。」 「そりゃ大変だ。じゃあとりあえず、どっちでしたっけ?」 遠くの空を見る。クマハチとドラゴンはどの方角へ帰るんだったか。 猊下が方角ぐらいは指定してくれるだろうと思ったが、彼はうーんとのんびり考えた後に 「あー…あっちでいいんじゃない?」 と適当な方向を指差した。 猊下の頭がきょろ、と動くと頭の跳ねた髪の毛もぴょこ、と揺れる。 今日は猊下とふわふわするのもいいか、と思う。 じんわりと猊下の穏やかさが内側を温めていく。 「猊下、朝ご飯は?」 「ん?つまみ食いで少々、かな。」 「じゃあ、朝市で果物でも買って食べながら行きましょう。」 果物を手にもぐもぐしながら歩く猊下はきっと可愛い。 そう思っての提案だったのだが、猊下が選んだ物が どうしても何かを髣髴させる物で俺は目のやり場に困り 恋人が変な目で見られやしないかと気を張りながら街を歩くハメになった。 「クマハチのクの字も見当たらないねぇ。」 「そっすねー。」 ぽちゃん。猊下の蹴っていた小石が他の小石に当たって小川に落ちた。 クマハチがこの時期眞魔国に戻っていたとしても、小川には絶対に居ない。 気まぐれに言葉だけでクマハチを探す猊下は立ち止まり、土に埋まった石を足で掘り返している。 石蹴りが続けたいようだ。 猊下が石蹴りをしながら歩くと、手を繋いでいる俺はおかしな調子で歩を進めなければならない。 たまに俺の軌道に入る石を猊下の軌道に戻して差し上げる以外は ぽつぽつとたまに言葉を交わす程度で、とても静かな恋人同士のお散歩だ。 猊下の作る空気に取り込まれるがまま、ふわふわと漂えば 俺はもう猊下の雰囲気の一部である。 この空気は猊下の内側に入れて貰ったようでとても心地良いのだが 折角のお出掛け、もっと色々な顔や声が聞きたいと思って、俺は猊下に話しかけた。 「猊下。今日はどうしてクマハチなんです?」 「昨日フォンビーレフェルト卿が話してたから、ほら、グレタちゃんもここんとこ帰ってないじゃん?」 「ドラゴンもですか?」 「そう。嫌がりながらも着実にフォンビーレフェルト卿との間に子供増やしてるんだよな、渋谷は。」 「ぷー閣下が孕ませ上手なんじゃないですかねぇ。あん人、あれで男前ですから。」 「僕には既成事実をタテに認知させてるように見えるけど。」 「タテにってのは坊ちゃんがうっかり流されたときに使うんですよ。微笑ましい共同作業で出来た子供には使えない言葉です。」 「うわぁ…残念だけど否定出来ないや…。まぁいっか。渋谷ん家は相手が男でも異種族の子供が何人居ても、それこそ百人乗っても大丈夫っぽいし。」 「百人乗っても?それってチキュウの諺かなんかで?」 「ううん。有名な宣伝文句だよ。百人乗っても大丈夫な物置の。凄いだろう?強度が分かりやすくて。」 「猊下のお家は何人ぐらい乗れるんです?」 「僕の家?君、僕と家族が物置に住んでいると言いたいのかい?随分失礼だな。」 「そんなわけないでしょうが。」 「あー…僕の家は三人で手一杯だね。強いて言うなら百年働いても大丈夫。仕事大好き一家だから。」 「猊下のお仕事好きは遺伝なんすね。」 「だろうね。机に向かうのは苦じゃない。眼鏡をかけるのも苦じゃない。」 「お父様も?」 「眼鏡。母さんも眼鏡。家族三人眼鏡。」 「似てらっしゃいます?」 「渋谷が、僕は母さん似だって。」 「じゃあお美しい方なんすねー。」 他愛無い話に花が咲いてきたと思ったら、猊下は調子よく蹴っていた小石を蹴るのを止めた。 そのまま道に置き去りにされ、遠ざかる小石を俺は振り返り いいんですか?と声に出さずに聞いてみる。 すると猊下はどう表現してよいか分からない、という顔をして俺の手を握りなおした。 「恋人に母親がキレイって褒められるの、変な気分だな。」 「そうですか?」 「うん。君が他の女性を褒めるのは面白くない、でも母親に妬くのはおかしいだろ?」 ぷうと猊下のほっぺたが膨れて、ふしゅうとすぐに萎む。 石は蹴らないが、猊下の足は土を削った。 そのまま左足を引き摺って道に線が引かれ、やがて途切れる。 完全に嫉妬している人間の行動だと思うが、猊下はそれに気付いていないらしい。 自分のことになると猊下はたまに抜けている。 それとも、こういう状況下に置かれたことがないせいなのか。 どちらにせよ可愛い。 「…げーか。」 「面白くないけど、相手は親だし。君は僕に似てる顔を想像してるわけだろ?」 ふしゅう、の顔で眉間に皺を寄せた猊下が顔を上げる。 突き出された唇にキスはしていいものか。 するか。しよう。 ちゅ。 「おいおいヨザック。僕は野外でするのはゴメンだよ?着替えもないし…。」 「猊下。さっきのはもう完全に嫉妬です。」 猊下が呆れた口調で誤魔化そうとしているのを制して突きつける。 数秒の沈黙の後、猊下は全身の力を抜いてふるふると身体ごと首を振った。 「えー。僕それだけは認めたくなかったのにー。」 「そんな可愛いことされても、後ろ見て下さいよ。ずるずるずるずる。」 「あーあーあれは違うよぉ、あれは左足が大地と融合しようとして失敗した跡だってば。」 「恋人とお出掛け中にどんな壮大な夢に挑戦する気なんです?」 「恋人の君にこそ見せたいじゃないか。僕の壮大な夢の軌跡を。」 ぐっと、猊下が目と眉の間をカッコよくしてずるずる引かれた線に頷いた。 壮大な言い訳に俺は肩を竦めてはいはいと頷いた。 「これなんですかー?」 「おにぎり。何ですかって言いながらも口に含む君は勇者だな。」 「猊下の作ったもんですから死にゃあせんでしょう。」 「そうかもしれないけど。得体が知れないものに対する警戒心はないのかい?」 もぐ…と頬張ったオニギリの中には塩味の魚が入っていた。 変わった食感だが味は悪くない。腹持ちも良さそうだ。 卵焼きも唐揚げもなんだか分からない物も含まれたが俺はそれに警戒などしない。 「猊下が触れたら得体が知れないものじゃなくなるんすよ。」 「それ今度使っていい?意中の子がバレンタインのガトーショコラを失敗してしまったときに。」 「俺の台詞で慰められてもなぁ。がとーしょこらーってなんですかぁ?教えて下さるならお作りしますけど?」 「作り方?ええと、甘い焼き菓子な感じで。」 「ザックリしすぎですよ。」 俺は苦笑いして経験値上昇中の猊下の膝を叩く。 すると猊下はオニギリを手にしたまま叩かれた膝を見つめ、急に静かになった。 「猊下?どうなさったんです?」 「ヨザック、ちゃんと楽しい?」 「は?今が、ですか?」 「そう。」 猊下の思いつきはいつも突然やってくる。 何を考え付いたのか分からない猊下の顔。 目の前には広げられたお弁当。 クマハチとドラゴンを探しにやってきた青い空の下。 見渡す限り、猊下の目がよくなりそうな緑。 前髪がいつもより簡単に風に乗っている。 風が強いのではなくて、俺の気持ちが軽いのだ。 猊下が急に俺の考えの及ばない思考に飛ばされてしまっても もう一度側に手繰り寄せようとする行為は俺自身を初恋のように貴方へと駆り立てる。 そういうときは楽しい。 「猊下は?」 「うん。」 「うんって。」 猊下は俺ではなくて遠くの空を見た。 もぐ…とオニギリを食べるのを再開した猊下の問いかけは まだ言葉を返しきれてない内に答えが見つかったらしい。 足がぴこぴこと親指をくっつけたり離したり。 猊下も楽しそうだ。 「やっほー。」 「やっほー?」 「あ、違った。うっふーん。」 「山じゃないんですけど。」 「うっふーん!」 「…あっはーん!」 「いやんばかーん!そこは…」 「猊下。」 「止めるなよヨザック。これは僕の国の伝統芸能の師の有名なひょとばなんらろ。」 師の有名な…そのあとにおにぎりを食べているので猊下はその師を尊敬してはいないようだ。 一番の目玉だったお弁当の時間は猊下の不思議な言動で一杯になって 感動が薄れてしまった。 けれど。 眞魔国はいい天気。 きっと帰り道も、いい顔していい日になる。 そんな日です。 |
metaphysical−メタフィジカル metaphysical→純粋。哲学的。形而上学的。 |